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中山マサ

中山マサ 1891~1976

中山マサ
 長崎市生まれ。教員生活ののち、昭和22年(1947年)衆議院議員大阪2区から立候補し初当選した。第5次吉田内閣厚生政務次官。党婦人局長などを経て、昭和35年第1次池田内閣の厚生大臣として入閣し、わが国初の女性大臣となった。夫の福蔵は参院議員、長男の太郎は衆院議員、海部内閣のときの外務大臣。4男の正暉も竹下内閣の郵政大臣という政治家一家。

中山マサの生い立ち

 明治24年(1891年)、中山マサはイギリス人の父パワーと日本人の母、飯田ナカの一人娘として長崎市に生まれた。地元の活水高等女学校を卒業したマサは、明治44年(1911年)にアメリカに渡り、アルバイトをしながら米国オハイオ州のウエスリアン大学を卒業した。
 大正15年(1916年)に帰国後は、活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務め、弁護士の中山福蔵(戦前は立憲民政党所属の代議士、戦後参議院議員となる)と結婚した。

女性初の大臣へ

 戦後の昭和22年(1947年)、第23回衆議院議員総選挙に民主党公認で旧大阪2区より立候補し当選。以後当選8回にわたる。民主党では幣原喜重郎派に所属し、後に幣原に従い民主自由党に移る。保守合同後は大野伴睦派に所属した。昭和28年(1953年)第5次吉田内閣厚生政務次官となる。
 昭和35年(1960年)、69歳で第1次池田内閣で厚生大臣として入閣し、日本初の女性大臣となった。就任当時、中山マサは「婦人が大臣になったからには、プラスアルファがなければ。つまり婦人問題に重点を置くということです」と、インタビューに抱負を語っている。
 在任期間は約5ヶ月と短かったが、中山マサは在任中、小児まひ対策や母子家庭への児童扶養手当支給の法制化に尽力し、まさに池田内閣の看板として奔走したものの、第2次池田内閣では再任はされなかった。昭和44年(1969年)四男・正暉に地盤を譲り引退した。

中山マサゆかりの地を歩く

1 活水女子学院

 明治12年(1879年)、エリザベス・ラッセル女史によって創立され、ラッセル女史が信念の拠り所としたキリスト教を「建学の精神」としている。
 エリザベス・ラッセル女史は、1836年アメリカ・オハイオ州カディズに生まれ。各地で教師を務めた後、1873年バージニア州で結成された米国メソジスト監督教会婦人外国伝道協会の書記になり、明治12年(1879年)、出島メソジスト教会の要請に応える形で来日した。その後、40年に渡ってキリスト教精神に基づく女子教育に献身し、帰国。1928年永眠。
 活水という校名は、新約聖書に収められているヨハネによる福音書4章14節の「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」に由来している。

2 東山手十二番館

 ここに中山マサの銅像が建てられている。明治時代初期にロシア領事館として建設され、その後アメリカ領事館やメソジスト派(婦人外国伝道協会)の宣教師の住宅として利用されてきた。初期の洋風建築形式を用いた木造洋館で、長崎港に向かって建ち、眺望を重視した配置になっている。平成10年(1998年)重要文化財に指定される。
 正面中央の幅広い廊下や、執務室として使ったと思われる3つの大きな居室、3面に付いた幅広いベランダなど実に堂々とした造りは領事館建築の特徴といえ、現在もそれらに領事館時代の名残を見ることができる。
長崎商工会議所
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