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昭和61年(1986)

44.ヒット商品展示会開催 (昭和61年2月)

 1985-86年のヒット商品展示会が昭和61年2月、本所ホールで開かれ、全国的に売れ行きの高い各商品が地元小売業界、一般消費者の関心を集めた。
 展示商品は、大手調査機関三菱総合研究所がメーカー2,700社を対象に、売り上げ倍率の大きかった商品(消費財)を調査の結果、上位ランクされた電化製品、カメラ、スポーツ用品、衣類、家庭用品、食料品など約1,000品目。
 展示品の中にはまだ地元で未発売のものも少なくなく、商品情報の薄さが反省された。特にワープロやカメラ、食料品などへの関心が高く、情報化、グルメ時代を反映したイベントでもあった。

45.国際委員会、長崎大学移転問題特別委員会設置 (昭和61年3月)

(1) 国際委員会

 昭和57年の長崎シンガポール協会設立、同59年の長崎マレーシア協会の設立、さらに同60年の在長崎中華人民共和国総領事館の開設、長崎セントポール姉妹都市締結30周年記念親善訪問団の派遣など地方における国際交流の活発化に伴い、本所は、国際交流に組織的に取り組む体制を整えるために、昭和61年3月、国際委員会(委員長・松田皜一副会頭)を設置した。
 委員会の活動内容は、関係機関や国際交流推進団体との連携、シンガポールでの物産展開催と使節団の派遣、国際会議の誘致、留学生の受け入れ、長崎国際博覧会(現・長崎「旅」博覧会)への協力など。

(2) 長崎大学移転問題特別委員会

 長崎大学の保田正人学長は、長崎大学の将来の発展のために現在地(文教キャンパス)より移転する長期構想を明らかにした。
 本所では、長崎大学の地域へのかかわり等その影響は大きいものがあることから昭和61年7月、長崎大学移転問題特別委員会(澤山精次郎委員長)を設置。大学本部と緊密な連携のもとに対応を進めることになった。
 委員会は、大学本部からその移転構想を聞く等活動を始めたが、63年10月、学長が土山秀夫医学部長と交替となり、凍結となった。

46.ハイテク塾『長崎伝習所』開校 (昭和61年4月)

ハイテク塾「長崎伝習所」の開校式
 21世紀に向けて地域社会と産業高度化を担う人材を育成し、人間ネットワークづくりを推進するため『長崎伝習所』が昭和61年度から設立され、長崎市と本所が共同運営を始めた。市民が学習、研究活動を行なうハイテク塾で、鎖国時代、海外文明の唯一の窓口だった長崎ならではの取り組み。
 『長崎伝習所』のネーミングは、ルーツをたどれば幕末までさか上る。長崎は鎖国時代、出島を通じて海外と交流、19世紀後半、西洋で優れた技術、学問がこの地にもたらされ、海軍伝習所や医学伝習所などが設立された。ここで化学、測量術、医学など当時、世界最先端の文明が伝えられ、近代日本の礎を築く優秀な人材を数多く輩出した。ハイテク塾『長崎伝習所』は、新しく、長崎を創造するための人材育成が狙いで、近代日本の道を開いたこれらの伝習所にあやかり命名された。
 塾は毎年2月にテーマを公募、先端技術、人材ネットワーク、長崎との関係などを基準に選定、開講されている。学習期間は1ヵ年、塾長には各テーマを応募した市民から選び、毎月数回研修会を開いている。
 61年に発足した塾は、3ヵ年にわたり、 (1) 先端技術及び工業に関する塾(6グループ) (2) 新商品開発・研究及び流通(2グループ) (3) 観光及び国際化(4グループ) (4) イベント関係(3グループ) (5) 都市形成関係(5グループ) (6) その他の塾の6ジャンル。28グループで延べ777人の塾生が、21世紀の新しい長崎創造に机を並べた。
 また各年とも塾の研究成果は報告書にまとめられたが、いずれも高い評価を受け、各塾で生まれた若い芽が長崎の活性化に大きく貢献するものと期待された。

47.長崎国際博覧会特別委員会を設置(昭和61年5月)

 長崎市を中心に開催される長崎旅博覧会の成功に向けて、昭和61年5月、本所は長崎国際博覧会特別委員会(平井謙介委員長)を設置した。(昭和62年に長崎「旅」博特別委員会へ名称変更)同博は地域活性化の切り札として県、長崎市、本所の三者が共催、財団法人長崎旅博覧会協会(会長・高田知事)が運営主体。
 同博は本県の経済浮揚策として、長崎の持つイメージを演出しながら全県土を舞台に『旅』の魅力を内外の人に満喫してもらうとともに、開催に伴う公共投資、イベントによる消費需要拡大を狙った。会期は平成2年8月3日から同11月4日までの94日間。会場は長崎市松が枝町の国際観光船埠頭中心に2万2,000 平方メートル、出島(海上仮設)5,000平方メートル、孔子廟の以上3会場と市内7ゾーン。
 出展パビリオンは、三菱グループはじめ、田崎真珠、JR九州、NEC、NTT、日立グループ、富士通、九州電力、松下電器の9団体。
 旅博の直接投資額は47億8,000万円。道路、土木など博覧会関係公共投資額は201億6,800万円。会期中の入場者見込みは150万人で、それによる宿泊、交通など消費額は231億7,400万円。その結果、投資消費される総需要額は519億2,300万円、生産誘発額(波及効果)を1.85とみて地域還流総額は958億1,200万円。
 入場券は大人2,580円、高校生1,650円、小中生1,340円、幼児520円で、発売は第1期が平成元年8月1日‐12月31日、第2期が同2年1月1日からであった。
 同博は昭和61年度、長崎国際博覧会準備室が開設され、準備が進められたが、その後、博覧会名称、開催期日、会場など大幅変更を余儀なくされ、同年12月、名称を『長崎旅博覧会』と正式決定。62年度基本計画を承認するとともに、企画、運営、宣伝、事業、交通など各分野にわたって関係官庁、民間企業の応援体制を整え、その実施に向けて精力的な作業を進めていた。
「長崎旅博覧会」メイン会場のイメージ図
 開催に当たって、博覧会を、 (1) 長崎の魅力の集大成(海外交流の歴史と特異な文化、異国情緒) (2) わが国初の海上ステージ(浮体海上による海と港の演出) (3) 国際色豊かな祭り(国際コンベンション都市を目指す長崎ならではの演出) (4) 長崎すべてがまつりの舞台(会場だけでなく、県内各地のイベントとの連動)と特徴付ける一方、イメージポスター、シンボルマーク、マスコットキャラクター、キャンペーンソング、パンフレットなどを通じて地元はもちろん、県内外、海外まで範囲を広げた大キャンペーンを展開し、入場者の活発な誘致運動が進められた。

48.ナガサキ・メディアセンター設立 (昭和61年5月)

商工会館に設置されていた長崎メディアセンターの端末機
 昭和50年代後半から60年代初めにかけて、コンピューター、光ファイバー、衛星通信といった、情報通信技術の発達は著しく、産業経済、社会活動に大きなインパクトを与え、世界的規模で“産業の情報化”が進展した。本県でも産・学・官による『長崎県高度情報化社会研究懇談会』をはじめ、各種研究会が誕生、県民生活の向上及び地域経済振興を図るため、情報化諸施策が積極的に検討され、それらの具体化が望まれていた。
 この中で本所は、地方都市として高度情報化社会への対応を図るには地域に密着した新鮮でキメ細かな情報の提供が不可欠で、ニューメディアを利用した情報化推進母体を通じて、情報発進機能の高度化、中央との情報格差是正を図るとの立場から、昭和61年5月、ビデオテックス通信会社『株式会社ナガサキ・メディアセンター』を設立した。県はじめ、長崎市、NTT、地元有力企業による第三セクター。
 ビデオテックスは、家庭に広く普及しているテレビと電話を用い、コンピュータ・センターとの会話形式で、画像情報が利用できる双方向性の新しいコミュニケーション・メディア。多くの情報がはんらんする中で、情報の受け手が、必要な時に、必要な情報をリアルタイムで入手できるサービスであった。
 同センターは、設立時資本金1億3千万円(代表取締役社長・松田皜一長崎自動車社長)。事務所は勝山町の栄泉ビル内に置き、61年9月からサービスを開始した。
 提供情報は、行政、生活、観光、不動産、ホテル、駐車場、文化、教育など広範で、公衆端末機の設置台数もスタート時の10台から現在既に100台を突破。それに伴って端末機からの年間アクセス数も百万画面を越えており、ビデオテックスの取り組みが近い将来、県が推進しているテレトピア計画、ニューメディア・コミュニティ計画など高度情報都市構想の一翼を担うことができると期待された。

49.コンベンション研究会「クリエイティブ・プラザ長崎」発足 (昭和61年8月)

 県が策定した『アーバン・ルネッサンス2001』構想は、基幹産業である造船業の構造的不況、水産業の不振など地域経済の低迷が続く中で、長崎地域経済の活性化への道をコンベンション都市化に対して求めていた。
 本所の音頭で昭和61年8月に設立した『クリエイティブプラザ長崎』コンベンション研究会(会長・山下泰一郎みろく屋社長)は、同構想の具体化について協力、推進の立場から、関連業種関係者(印刷、展示装飾、警備、輸送、宿泊、土産品など)19企業が参加。様々な分野のコンベンションについての討議、研究会を開催、先進都市の金沢、松山、冲縄などの視察、調査はじめ、コンベンションスケジュールの発行などを続ける中で、会員のコンベンションビジネスヘの認識、意欲が高まった。
 こうした活動を基盤に63年10月、会員の強い要請のあった『長崎コンベンションビューロー』が設立され、ニュービジネス創出などを目指し、本格的な稼動体制に入った。ビューローに寄せる地域企業の期待は大きく、長崎発展の鍵を握っていると期待された。その後『長崎コンベンションビューロー』は、(社)長崎市観光協会と合併し、平成7年に『長崎国際観光コンベンション協会』となった。

50.長崎駅周辺地区整備について提言 (昭和61年10月)

 長崎都市再整備に取り組んで来た本所都市問題特別委員会(委員長・松田皜一副会頭)は、国鉄長崎駅周辺地区の整備の在り方を、昭和61年10月、県、長崎市、国鉄九州総局長に提案するとともに、その実現のため乱開発防止策を求めた。提案は『長崎港臨港部の再整備についての提案(その4)―国鉄長崎駅周辺地区整備の考え方』として、ナガサキ・アーバン・ルネッサンス2001構想や新幹線長崎駅設置などを踏まえ、潮の香の漂う長崎らしい再整備を訴えた。
 提案は、長崎駅周辺地区を『長崎の玄関』として海と陸との結接点、陸上交通の要、などと位置付け。総合的交通ターミナルとして整備するとともに、駅を海に開く形で整備し、潮の香漂う終着駅として長崎らしさを生かすことが基本テーマ。これに基づいて次の整備方針を掲げた。
▽魚市場地区を利用した海のターミナルの整備。
▽駅の正面を魚市側(海側)に向け、港との景観的、機能的一体化を図る。
▽駅の南側(港側)に快適な環境を創出するシンボル広場を設ける。
▽電車、バス、タクシーなどの交通機関がスムーズに連結する機能的交通広場を駅東側に整備する。
▽大規模駐車場ビルを設置し、乗用車と公共輸送機関との乗り換えをスムーズにすることで、市中心部への車の乗り入れを減らす。

51.全国商工会議所婦人会連合会総会開催 (昭和61年11月)

 昭和61年11月、婦人の立場で商工業振興に取り組んでいる全国商工会議所婦人会連合会(会長・森井登久子東商婦人会会長)の第18回総会が、長崎市公会堂で開かれ、1,864人が参加し、研修と親睦を深めた。
全国商工会議所婦人会連合会総会であいさつする五島日商会頭
 婦人の自主性で地域商工業の改善、発達、商工会議所の組織強化を進めているもので、初の長崎開催。総会は五島昇日商会頭をはじめ、福岡通産局、高田知事、本島市長らを迎え、本所の清島会頭、竹谷婦人会会長が歓迎のあいさつを行ない、五島会頭が『戦後の日本経済は物質中心で精神面が欠けていた。この精神面を婦人の力で補ってほしい』と述べた。森井全商婦連会長が『婦人の地位、資質の向上を目指し、力を合わせよう』と決意表明後、長崎大会を記念して県と長崎市に社会福祉基金として300万円を贈った。
 協議では、新型間接税と国際交流推進などが提案され、新型間接税(売上税)は『大型間接税にほかならず、円高デフレに苦しむ中小企業、商業、サービス業にとって死活問題として反対していく』ことが決議された。
 総会後の懇親パーティーでは、全国各地の出席者らが親睦と友好を深め合い、2日目は県内各観光地などを見学するエキスカーションで秋の長崎を楽しんだ。
長崎商工会議所
〒850-8541
長崎市桜町4-1 長崎商工会館2F
TEL.095-822-0111
FAX.095-822-0112/825-1490


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