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長崎商工会議所の変遷

1.長崎商法会議所の誕生(明治12年10月)

 明治維新政府の進取的な殖産興業策によって、わが国は近代産業国家への道を急速に歩むことになった。
 しかしながら、中央集権政治体制の強化は、日本の西端に位置する長崎の経済界にさまざまな不利益をもたらし、貿易港としての優位性を横浜、神戸に奪われたのみならず、産業の近代化も他都市に比べて立ち遅れざるを得なかった。長崎においても、明治初頭、早くも産業資本による金融機関や会社組織による商社が出現し、近代資本主義の萌芽が認められたが、その勢力は微弱で依然として封建経済的諸形態が残存し、長崎の産業界の近代化が本格的に進展したのは明治10年の西南の役以降であった。
十八銀行本店前にある 「長崎商工会議所発祥の地」の碑
 明治11年3月、わが国最初の商法会議所が東京で設立され、以後、大阪、神戸などと全国主要都市で商法会議所の設立が相次ぎ、長崎の商工業界でもその設立を急ぐことになり、松田源五郎氏ら有志実業家が中心となって準備を進め、長崎商法会議所の設立に至った。
 長崎商法会議所の創立記念式典は、明治12年10月1日、築町107番地(現十八銀行本店所在地)の松田商行において会員50人が参集し、長崎県から高橋大書記官ら各客員が臨席して盛大に挙行された。投票によって会頭に松田源五郎氏、副会頭に青木休七郎氏を推挙し、祝宴で一同に祝盃と赤飯を配ってその発足を祝った。
 こうして長崎商法会議所はわが国五番目の商法会議所として生誕、事務所を松田商行に置いて、早速、事業活動を開始することになった。これが長崎商工会議所の発祥であり、130年の歩みはここに始まったのである。

主な事業と困難な財政運営

初代会頭・松田源五郎
 当時の商法会議所の主な事業は、(1)産業経済問題に関して中央、地方官庁の諮問に応えること(2)商工業の改善発展策に関して検討すること(3)地方商工業の実情を調査することなどであった。しかしながら商法会議所は政府の勧奨によって設立されたものの、有志実業家の私的な団体にすぎなかったため、組織基盤が薄弱であっただけでなく、財政的にも極めて不安定であった。
 すなわち、商務局から毎年500円の保護金を仰ぐほかは、会員の拠出金(毎月1円)と有志商工業者の寄付によってどうにか経費を支弁するありさまで、その運営は困難を短め、事業活動も意にまかせない状態のうちに推移していった。
 こうした折から明治14年4月、政府は農商務省を創設して、より積極的な産業振興策を遂行しようとしたが、同年5月、突如として太政官布告第29号をもって農商工諮問規則を発布した。
 この布告は官設の諮問協力機関として各府県に農商工諮問会を、各府県の区と連合町村区に農商工業議会を設立しようとするもので、商法会議所の存在を全く無視し、同年7月には商法会議所に対する保護金まで打ち切るに至った。そのため全国各地の商法会議所は、本来の機能を失い、存続さえ困難な状態に陥った。
 こうして長崎商法会議所は、創立2年目にして早くも存亡の岐路に立たされることになった。松田会頭ら幹部は善後策について協議したが、長崎貿易会所が積み立てている貿易5厘金から、毎年500円の補助金を下付するよう懇請することになった。この補助金の下付については、異論が起こって難儀したが、明治16年からようやく実現をみるに至り、商法会議所はかろうじて余命を保つ状態を続けていったのである。

2.長崎商工会への改編(明治16年12月)

 明治16年5月、政府は、区町村や連合区町村に商工会を設置することができる旨を布達。
 これにより、当時の石田長崎県令は、長崎の主要な会社、組合等の総代、有志の参集を求めて長崎商工会の設立を奨めた。これに応じて松田源五郎氏ら有志数人が発起人となって、同年12月、それまでの長崎商法会議所の組織を変更し、長崎商工会を設立した。
 会頭に松田源五郎氏、副会頭に只野藤五郎氏が就任し事務所を桜町40番戸に置いて、長崎商法会議所の事務すべてを引き継いだ。
長崎会所跡(上町、昭和初頭)
 長崎商工会は、商工業者総代、勧業委員および有力会社代表で構成され、各方面にわたる商工業者層を網羅して、商工業界を代表する公認の団体としての地位をようやく占めることになった。 しかしその経費は、商法会議所時代と同様に、長崎貿易会所から毎年500円宛の補助を受け、不足分は有志の臨時寄附その他で支弁する状況で財政的には依然として不安定であった。
 商工会の活動は、その成立過程からして、諸官署の諮問搬関としての機能が中心であったが、事務権限を商・工・金融・運輸の四項に分けて、それぞれの関係事項について調査検討し、これを諸官署に建議請願、諮問答申を行なうなど不完全ながらも現在の商工会議所に近い機能を備えるに至った。

3.長崎商業会議所の創立(明治26年12月)

 商業会議所条例の制定により、全国各地で新しく商業会議所の設立が相次ぎ、長崎商工会でも松田源五郎会頭ら15人が発起人となって商業会議所の設立計画を進め、商工会の事務一切をこれに継承させることにした。
迎陽亭跡(筑後町)
 明治26年4月8日、上筑後町の迎陽亭において、市内の主要な商工業者48人が出席して創立協議会を開催。設立申請書・会員選挙規則の起案、設立予算の編成など創立に関する事務を創立委員に委託した。
 創立費は第十八国立銀行(十八銀行の前身)から借り入れること、創立事務所を長崎貿易商集会所に置くことを決定した。
 長崎商業会議所は、定款によって会員(現在の議員にあたる)30人で組織するとされ、会員は選挙によって選ぶこととされた。会員選挙規則によれば、選挙権者は所得税を納付する商業者で、被選挙権者(会員有資格者)は選挙権を有する者で30才以上の男子および商事会社とされた。
農商務大臣後藤象二郎より下された 長崎商業会議所設立認可指令 (明治26年12月27日)
 長崎商業会議所最初の総会は、27年5月10日、創立事務所において、北原市長臨席のもとに会員18人が出席して開催。松田発起人総代ら5人を選出、事務所を長崎貿易商集会所に置くことを議決した。
 27年10月30日、臨時に総会を招集して役員選挙を行ない、会頭に松田源五郎氏、副会頭に松尾己代治氏、常議員に松本武功氏ら5人を選任。ここに長崎商業会議所の体制が整い、新しい時代に対処して活動を開始することになった。

4.長崎商業会議所の改組(明治36年4月)

大村町(現在の万才町)にあった 長崎商業会議所庁舎
 商業会議所法の施行にともない、長崎商業会議所でも、早急に新法に基づく商業会議所へ改組することになった。明治35年9月3日、臨時総会を開催して議員選挙規定の改正を行ない、同月29日付をもって主務大臣の認可を受け、翌36年1月16日、新選挙規定による初の議員総選挙を行なうことになった。ところが、この議員選挙が、それまで会議所の主流派であった実業同志会派と、かねてから会議所の運営に不満を抱いていた商工会派との勢力争いになり、選挙戦は激烈をきわめた。結果は商工会派が議員36人のうち過半数の19人を占めることになり、会議所の旧勢力は後退を余儀なくされたが、この抗争は後々まで尾を引いて、その後の会議所の円滑な運営に支障をきたすことになった。
 同年2月3日、定款改正案審議のため総選挙後初の臨時総会を開いたが、会議所の存廃問題をめぐって商工会派と実業同志会派の間で論議が沸騰して定款改正の審議は進まず、同月25日の臨時総会で双方妥協のうえ、ようやく議決をみた。こうして、新商業会議所は予期せぬ波乱のなかで発足したのであった。

5.桜町に新所屋を買収・移転(大正8年11月)

 長崎商業会議所は、大正年代に至っても、明治26年以来借用していた大村町(現在の万才町)の長崎貿易商集会所に事務所を置いていたが、建物が老朽化して危険なうえに、事務の拡大によって狭隘となり執務にも支障をきたす状態であった。当時の会頭・橋本辰二郎氏は、就任早々から、こうした不便を解決し会議所の威信を高めるため社屋建設の必要性を痛感。
 桜町1番地の旧長崎税務監督局(当時長崎税務署)の敷地、建物の払い下げを大蔵省に懇請、陳情を重ねた結果、大正8年になって内諾を得た。
桜町1番地にあった旧庁舎
 同年11月15日、事務所を移転、ただちに執務を開始したが、翌9年3月から、3期にわけて大改造工事を行ない、全部落成をみたのは11年2月10日であった。買収、改造のため162,300円の巨費を要したが、その資金は銀行借入金120,000円、有志寄附金64,400円によってまかなわれた。
 地上二階、地下一階、煉瓦造りの堂々たる外観と近代的な施設を構えた新所屋は、昭和39年2月、長崎駅前の交通産業ビルに移転するまで40余年にわたり長崎経済界のシンボルとして威容を誇ったが、同年、国道34号線拡幅のため惜しくも解体される運命となった。

6.長崎商工会議所への改組(昭和3年8月)

 昭和3年1月、商工会議所法が施行され、長崎商業会議所は、同年六月二十日の総会で新定款を議決して認可を申請、8月6日付をもって認可があり、新法に基づく商工会議所として再発足することになった。
 長崎商工会議所の新定款では、議員定数を40人と定め、従来の一般選挙による議員(32人)のほかに銀行信託業、貿易業など重要商工業を代表する議員(8人)を加えることにしたが、同時に、議員選挙権が拡大されたため、ここに、地域総合経済団体としての商工会議所の組織・機構が、ようやく確立されることになった。
 この改組により、商工会議所は、従来の消極的な諮問機関にとどまらず積極的な実行機関として機能を備えることになり、中小企業対策をはじめ産業合理化、実務教育、国際活動など幅広い事業活動を行ない、満州事変から支那事変、更には太平洋戦争へと拡大した苦難の時代に対処していったのである。
昭和18年頃の事務局の様子(左)と、事務局職員(右)

7.長崎県商工経済会の発足(昭和18年9月)

 昭和18年3月、商工経済会法が公布され同年6月から施行されることになったため、長崎県は、同年4月28日、長崎商工会議所に県内商工会議所代表を招いて、商工経済会設立に関する協議会を開いた。会議には、県から菅野経済部長ほか商工主管課職員、会議所側から山田鷹治長崎商工会議所会頭ほか各会議所代表が出席して、(1)会員指定の範囲 (2)会員資格の基準 (3)会員の調査方法など商工経済会設立準備に関する協議を行ない、ただちに設立準備に取りかかることになった。
 商工経済会の会員資格は法定され、有資格者は強制加入とされたが、各商工会議所、町村役場はさっそく会員有資格者の調査に着手し、同年5月、名簿を県に提出、報告した。県はこれを公報によって告示すると同時に設立委員として橋本辰二郎氏(長崎)、田中丸善重氏(佐世保)ら5氏を任命した。
 こうして、商工経済会の設立は、国策協力機関として長崎県主導のもとに進められ、同年9月6日、長崎商工会議所で創立総会が開かれた。総会には、各商工会議所、町村商工業代表が出席。定款、事業計画、予算を審議して創立を議決し、ここに、佐世保、島原、諌早、大村に支部、福江、武生水、厳原にそれぞれ出張所を置く全県組織として長崎県商工経済会の発足をみることになったのである。会員数は県の告示によれは8,056人に及び、会頭に橋本辰二郎氏が任命され、佐世保支部長に北村徳太郎氏ほか各支部長、出張所長が任命された。
 長崎県商工経済会の発足に伴い、県内の全商工会議所は商工経済会に統合され解散することになったが、長崎商工会議所は同月28日、会議所で、物故議員・職員慰霊祭、永年勤続議員・職員表彰式を行なったあと議員総会を開催、解散を議決した。ここで、明治12年、長崎商法会議所として誕生以来、商工業老の自主的な団体活動を続けてきた長崎商工会議所の歴史に、ひとまず終止符を打つことになったのである。

8.商工会議所の再建、社団法人日本商工会議所発足(昭和21年10月)

 昭和20年8月15日、日本はついに連合諸国に無条件降伏して、満洲事変以来の十五年戦争にようやく終止符を打った。敗戦によって残されたものは荒廃した国土と極度の物資欠乏、それにインフレであった。国全体が混乱と虚脱の渕に投げこまれ、経済は全く活力を失っていた。必然的に全国の商工経済会も形骸化し、その活動は完全に停止していた。
 全国商工経済会協議会は、経済界の混乱を収拾し、国民生活の安定と経済復興をはかるとともに、商工経済会自体の建て直しを迫られることになった。商工会議所再建については、政府との間で種々検討されたが、結局、占領軍当局の方針に従うことになった。
 昭和21年6月、占領軍当局は、①商工会議所は民間の自主的な設立によるものであること ②加入脱退を自由とすること ③商工会議所法の制定は認めないことなどを内容とする覚書を示し、民主主義に基づく商工会議所の設立を認める方針を明らかにした。同年10月、商工経済会法は廃止され、商工経済会は、名実ともに解散することになったが、同時に、民主的経済団体として社団法人組織による商工会議所設立の動きが早くも始まった。
 商工業の前途の見通しも明らかでない大混乱期に、加入脱退が自由な任意会員組織の商工会議所を創立することには、多くの困難と障害を伴ったが、壊滅した産業経済の復興のため会議所再建の指導的立場にあった商工業者の熱意と努力は大きく、全国各地に新商工会議所が続々と設立されることになった。そうして21年12月には、全国商工経済会協議会(20年10月に日本商工経済会と改称)に代わって社団法人日本商工会議所が発足した。

9.社団法人長崎商工会議所の設立(昭和21年10月)

 戦時中に、商工会議所に代わり国策協力機関として設立された長崎県商工経済会は、終戦による戦時経済体制の崩壊によって解散同然の状態にあったが、昭和21年10月、商工経済会法の廃止に伴い、全国各県の商工経済会ともども解散されることになった。
 これより前、すでに全国各地で商工会議所再建の動きが活発になっていたが、戦災・経済復興のため一日も早い商工会議所の復活を望んでいた長崎の経済界は、21年9月、中部悦良氏ら経済界有志が発起人となって設立発起人会を結成、さっそく社団法人組織による長崎商工会議所の設立準備を開始した。
 社団法人長崎商工会議所の創立総会は、同月30日、長崎県商工経済会で会員345人のうち124人が出席して開かれた。会議は、まず発起人代表中部悦良氏から設立準備経過が報告された後、同氏が議長となって議事に入り、定款、予算を原案どおり議決、ひきつづき常議員40人を選任して閉会した。その後10月8日に第1回常議員会を開催して役員選任を付議、会頭に中部悦良民、副会頭に小川嘉樹、脇山勘助の両氏ほか理事9人、監事2人を選任して、ここに新体制による長崎商工会議所の発足をみることになった。
 再出発した長崎商工会議所は、①会員の加入脱退は自由とする ②会費は強制徴収しない ③最高意思決定機関として会員総会をおくこととされ、商工業者の自主的な団体として民主的な運営をはかろうとするのが、戦前の会議所にみられない大きな特徴であった。

戦災からの経済復興に向けて

 終戦直前の昭和20年8月9日、広島に次いで史上二番目の原子爆弾の洗礼を受け、市北部を一瞬にして灰燼に帰した長崎市は、終戦当時、都市機能が完全に麻痺し、産業界の生産活動も停止同然の状態にあった。
 間もなく、産業界は生産活動を再開したものの、軍需生産を打ち切られた造船業・関連工業をはじめすべての産業が混迷を続け、三菱造船所さえ僅かに漁船の建造や炭車などの製作によって辛うじて操業を維持するありさまであった。
 昭和21年10月、こうした情勢のなかで長崎商工会議所は再出発したが、会員拡大、会費確保の見通しもつかず、その運営には多くの困難を伴った。そのうえ翌22年4月には、公職追放令により中部会頭、小川副会頭が就任間もなくして辞任に追い込まれるという悲運に遭遇した。
 しかしながら、脇山会頭ら会議所新首脳陣の郷土長崎の復興と商工業の再建にかける意気ごみはさかんであった。さっそく会員拡大運動を展開して会議所基盤の確立に努めるとともに、その総力をあげて戦災・経済復興対策に取り組むことになった。
 昭和22年度の事業計画をみると「長崎市産業経済の再建発展をはかるためには、地域経済の実態について綿密な調査を行ない、そのうえに立って組合的な施策を考究しなければならない」と強調し、とりあげるべき問題として(1)経済機構の改編 (2)財政・金融の調節 (3)物価の調整 (4)電力の増強 (5)石炭増産の促進 (6)輸送力の強化 (7)都市・港湾計画の推進 (8)経済道義の高揚 (9)労資協調の円滑などを掲げて積極的な姿勢を示している。
 こうして、戦後の長崎商工会議所の事業活動はスタートすることになったが、その中心となる事業は、意見活動と調査活動であった。商工業者の総意に基づいた会議所の公正な意見要望は適切な行政施策の確立と実行を促すことになり、産業界の実態、動向などに関する会議所の調査資料は具体的対策樹立のための貴重な資料として官民にひろく重用された。さらに、経済法令・金融・税務などに関する講習会・説明会を開くなど、中小商工業者の指導事業にも力を注ぐ一方、長崎経済復興会議の設置など各種産業団体間の連絡協調にもあたり、戦後経済の再建の過程で長崎商工会議所の果した役割はきわめて重要であった。

10.所屋の火災とその復旧(昭和25年3月)

 昭和25年3月13日付の長崎日日新聞は、「3月11日午後10時5分頃長崎市桜町の長崎商工会議所(会頭脇山勘助氏)2階から出火。折からの吹雪まじりの強風にあおられて火煙はみるみる同所を包み、所内の事務所、会社19室に延焼。レンガ造り3階建延630坪を全焼約3時間後に鎮火した。損害5,000万円、原因は目下、市署で調査中であるが失火の疑いが濃厚である。同建物は明治20年代に建設された長崎最古のレンガ建であり、11日終了した長崎百貨卸見本市商品は全部他に搬出ずみであったが、会議所の調査資料全部を消失したことは県商工振興上痛く惜しまれている」と長崎商工会議所火災の模様を大きく報じた。
 商工会議所は、翌3月12日、長崎電気軌道本社で緊急役員会を開き、脇山会頭が陳謝の意を表したあと、火災の状況について「原因については漏電か失火によるものか、まだ判明していない。会議所事務局は幸い水浸しになっただけで金庫、重要書煩、電話機、什器調度品などは搬出し焼失を免かれ、地下室と事務所の1号室、談話室などはすぐ使用できると思う。事務局は差し当り隣接する通産局階下に移転し、支障がないようにしている」と報告、応急措置について協議した。
火災に遭う前の貴賓室(上)と図書室(下)
 次いで同4月5日の役員会で、応急対策の結果を報告して火災臨時対策費を議決するとともに、復旧対策委員会の設置を決定して脇山会頭ら役員13人を委員に委嘱、ただちに復旧工事とその資金調達にとりかかった。
 建物本体の復旧工事は6月20日に着工、8月10日には早くも終了したが、内装工事その他で完全復旧までには約1年を費やし、復旧費約400万円は長崎電気軌道をはじめ会員有志の拠出によって調達された。

11.(社団法人)商工会議所法の制定(昭和25年5月)

 昭和21年10月に商工経済会が解散したことに伴って、社団法人組織よる商工会議所が全国各地にあい次いで設立されたが、それらの中には組織が薄弱で会議所としての実態を有しないもの、財政が窮迫して活動が不活発な会議所、さらには本来の目的を逸脱して特定の者の利益をはかる事例なども数多くみられた。
 こうした実情から政府は、特別法によって商工会議所の組織や事業について規制を加えて、乱立を防止することになり、昭和25年5月、法律第215号をもって(社団法人)商工会議所法が制定、施行されるに至った。
 新しい商工会議所法は、商工会議所の人格は、従来どおり民法上の社団法人とし、名称使用、基準、原則等を規定しただけの僅か8条から成るきわめて簡単なものであったが「商工業の改善発達を促進し、あわせて社会福祉の増進に資するために」と商工会議所の公共性をはじめて明確にするとともに、その公益性から法律に基づいて規制されることを明示して、商工会議所の地位を高めることにした。
 新法の施行によって、全国の商工会議所はすべて改組されることになったが、長崎商工会議所は同年11月20日に定期総会を招集して、(1)改正定款 (2)定款改正に伴う経過措置を議決して改組を決意、同月30日に認可を受けて、新法に基づく社団法人長崎商工会議所として再発足した。

12.特殊法人長崎商工会議所へ改組(昭和29年7月)

 新商工会議所法が昭和28年10月1日から施行されたことに伴い、長崎商工会議所は、翌29年7月1日を期して新法に基づく特殊法人長崎商工会議所として発足することになり、組織変更の準備を進めた。
 29年6月2日、組織変更のための臨時会員総会を開き、中部会頭は開会にあたり「新商工会議所法に基づく特殊法人へ改組することによって、会員のほかに特定商工業者が商工会議所の構成メンバーとして新たに加わることになり、商工会議所の組織基盤は大幅に拡大強化されることになった。この際、一層団結を強固にして現下の困難な経済情勢に対処し、地方産業経済の振興に努力したい」と挨拶した。次いで議事に入り、定款、事業計画、収支予算、組織変更に伴う経過措置等を議決したあと、議員・役員については任期満了まで選挙を行なわず、現役員・議員がそのまま留任することにして議事を終わった。絵会後ただちに通商産業大臣あて組織変更の認可を申請、同月19日付をもって認可があり、ただちに登記を行なって組織変更に関するすべての手続きを完了した。
 こうして、同年7月1日から、特殊法人長崎商工会議所の発足をみるに至ったが、会員1,260人のほかに特定商工業者1,680人(内730人は会員)を加え、総勢2,210人で組織する地域総合経済団体として、やがて30年代を迎えようとする長崎地域経済の振興発展のために活発な事業活動を展開していくことになったのである。

13.大黒町に新所屋「長崎交通産業ビル」完成(昭和39年2月)

 長崎商工会議所は、大正8年以来、昭和30年代に至るまで40余年にわたり桜町に所屋を構え、その特異な外観は、長崎経済界のシンボルとして市民にも親しまれていたが、昭和31年10月、長崎県から国道34号線(県庁前~桜橋)の拡幅工事のため敷地の一部収用の通達があり、所屋を新築移転するか、一部を撤去して改築するかの決断を迫られることになった。
大黒町に完成した「長崎交通産業ビル」
 商工会議所首脳陣は、この問題について協議を重ねたが、新築移転することに決した。昭和35年6月2日の常議員会で、中部悦良会頭は、これまでの経緯について報告したあと、所屋の新築移転構想について「長崎県が長崎駅前に県営バスの発着所を完備したビル(ビジネスセンター)を建設する計画を進めており、商工会議所としても新事態に対処して、心機一転、使命の達成に邁進するために、これに協力して 新所屋を同ビル上層階に建設したい」との所信を明らかにし、賛同を求めた。
 その後、具体的な計画の立案を進め、翌36年2月18日の臨時議員総会に、これを諮って、長崎駅前に長崎県と共同でビルを建設、移転することを正式に決定した。ただちにビル建設委員会を設置、県当局との間に建物の設計、予算等について交渉を重ね、6階建ビルのうち、6階部分(500坪)を商工会議所が区分所有する方式で建設計画をまとめた。
 こうして、新ビルの建設は、37年3月18日起工の運びに至り、2年の工期を要して39年2月に完成「長崎交通産業ビル」と呼称された。ちなみに、建設建築費9,319万円、什器・備品購入費437万円、旧所屋解体費330万円など総額1億225万円にのぼる建設・移転費用は、桜町土地の売却代金、補償金、協力金、積立金によってまかなわれた。
新所屋の落成と創立70周年(明治26年起算)を祝う記念式典
 商工会議所は、同月17日、開所式を行ない、さっそく新所屋で執務を開始したが、同年5月25日、新所屋の落成と創立70周年(条例による長崎商業会議所が創立された明治26年起算)を祝う記念式典が新ビル屋上の特設式場で、佐藤長崎県知事、田川長崎市長ら政財界代表多数を来賓に迎え、商工会議所の役員、議員など関係者500余人が出席して盛大に開かれた。式典は山田博吉会頭の式辞にはじまり脇山寛ビル建設委員会代表の建設経過報告、来賓祝辞と続いたあと功労者・永年勤続役員表彰を行なった。ひきつづいて祝宴に移り、長崎芸能会による祝舞も出されて、賑やかに、会議所の新門出を祝った。
 なお、式典に先だち、23日に大音寺で商工会議所関係物故者の慰霊法要を行ない、先輩諸賢の霊を慰めるとともにその遺徳をしのんだが、新所屋の建設を発起し、その推進に尽された中部悦良会頭がその完成をみることなく、工事半ばの37年11月3日に逝去されたことは痛恨のきわみであった。

14. 桜町に新所屋「長崎商工会館」完成 ( 昭和55年12月 )

 大黒町にあった長崎商工会議所の所屋は、昭和39年2月、長崎県交通局の新築を機会に合流建設したものであるが、その後、地域経済の飛躍的発展、諸環境の変化による会議所活動の拡大、多様化にともなって、現所屋ではさまざまな不便を感じるようになり、会議所の機能を十分に発揮できない状況にあった。
 こうした状況から、清島会頭は就任直後の昭和51年12月20日の議員懇談会の席上で「造船不況の打開、地域経済の振興のため商工業者の一層の結集が必要であり、さらに、経済の広域化、国際化に対応するためにもその拠点となる新商工会館の建設が望ましい」と所屋の移転・新築を提唱した。これを契機として、翌52年1月14日の常議員会で、新商工会館の建設推進を議決、同年4月会館建設推進特別委員会を設置して、建設計画の構想について検討を開始した。
 さらに同年8月には同委員会を会館建設企画特別委員会に改組して、用地選定、会館規模、資金調達の問題など計画立案について検討を重ねた。
 こうして、翌53年3月30日の通常議員総会に、新商工会館建設を附議、計画案の概要について事務局より説明して、万場一致で会館建設を決議した。
 計画案の概要は、約25億円の資金を投じて桜町四番一号の空地(1,670m²)に長崎県、長崎市、長崎県信用保証協会と共同で、地上九階、地下二階建のビル(延床面積11,650m²)を建設、その1階の1部と2~3階を商工会議所が使用するというもので、同年5月それまでの特別委員会を解散して、新たに会館建設推進本部を設置、清島会頭自らが本部長に就任した。
 新商工会館の建設は、54年6月7日に鍬入式が行なわれ、翌55年12月に完成した。総工費約26億円、工期1年8ヵ月。清島会頭をはじめとする役員、議員、関係各位の熱意と努力の結晶が見事に実った結果であった。
桜町に完成した「長崎商工会館」
 国際会議施設など完備した赤レンガの近代建築は、新時代を目指す地域経済界の活動拠点にふさわしい建物となった。
 会館は、総面積11,652平方メートル、地上9階、塔屋1階、地下2階の鉄筋コンクリート建て。外壁はレンガタイル張りの長崎らしい装い。会議所は1階の一部と2階、3階で、総面積3,542平方メートル。200人収容のホールはじめ、講習会、会議用の小会議室など。ホールは国際会議に備え、同時通訳施設を設けた。
 本所のほか、長崎市商工観光部、長崎県信用保証協会、県中小企業指導センター、県商工会連合会、県中小企業団体中央会、県経営者協会、県下請企業振興協会(現・県中小企業振興公社)、県貿易協会、ロータリークラブ、ジェトロ長崎情報センター、十八銀行桜町支店など経済関連団体、行政機関が入居、市内経済界の拠点ビルとなった。

会館の概要

(1)建築工事概要
 ○建築地:長崎市桜町4番1号
 ○敷地面積:1,670平方メートル
 ○建築面積:1,348平方メートル
 ○延面積:11,652 平方メートル
 ○構造: 鉄骨・鉄筋コンクリート造
 ○階層: 地下2階、地上9階、塔屋1階
 ○設備: 駐車場(43台)、エレベーター(3台)、冷暖房(全館中央セントラル方式)
 ○外装: 小口二丁掛タイル(イギリス貼打込工法)
 ○着工: 昭和54年6月7日
 ○竣工: 昭和55年12月5日
 ○設計監理施行:株式会社竹中工務店
(2)商工会議所
 ○延床面積:3,542平方メートル
 ○地下:1階・2階・駐車場
 ○1階:玄関、ロビー
 ○2階 :会頭室、特別応接室、談話閲覧室、特別会議室、ホール、商工会議所事務局
 〇3階:事務室、第1・2会議室

会館建設経過概要

○昭和52年
 1月   会館建設推進特別委員会設置(常議員会)
○昭和53年
 3月   会館建設決議(議員総会)
 5月   会館建設推進本部設置(常議員会)
 8月   基本計画着手
 12月 基本計画案決定
 〃   実施設計着手
○昭和54年
 4月   実施設計完成
 6月   工事請負契約完了
 〃   地鎮祭
 7月   地下山止H鋼打設開始
 9月   地下捨コンクリート打設
 11月 地下2階コンクリート打設
 12月 地下1階鉄骨建方完了
 〃   地下1階コンクリート打設
○昭和55年
 1月   地上階鉄骨建方工事開始
 3月   1階~塔屋1階コソクリート打設
 9月   定礎式
 10月 外部足場解体完了
 11月 全工事完了
 〃   長崎市役所竣工検査
 〃   長崎市消防署竣工検査
 12月 建築主竣工検査
 〃   竣工式
 〃   建物引渡
○昭和56年
 1月   落成式
長崎商工会議所
〒850-8541
長崎市桜町4-1 長崎商工会館2F
TEL.095-822-0111
FAX.095-822-0112/825-1490


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