明治12年(1879) ~昭和20年(1945)
1.初代会頭松田源五郎翁の銅像建立 (明治41年8月)
初代会頭・松田源五郎翁について、長崎商工会議所50年史は、次のように記述している。
「松田源五郎は、明治12年長崎商法会議所の設立より、長崎商工会及び長崎商業会議所の設立を経て、明治34年3月逝去の日に至るまで、22年の久しい間、終始一貫して或は提唱者となり発起人となり、また会頭となって、会議所の運営伸展に努力し、長崎商業会議所の父とも言うべきものである。のみならず我が国実業界の先覚者であって、その経歴資性に於いてもまた我が国実業家中の第一人者に位するものであった。従ってその言動は、時世の趨勢に先んじ、常に長崎市民を統合してその師表となり指導者となり諸多の公私事業を企画経営した。就中、長崎商業会議所はその公共事業中に於て最も精力を用いた所のものである」。
その晩年、すべての公職から退くにあたり告別の宴を催した際も「余老来健康頗る不良、我が国の隠居の習慣は甚だ好まずと雖も、止むを得ず各種の公務及び私務を辞せんとす。然れども独り商業会議所に至りては、身命の限り之に背くこと能はず」と挨拶し、商業会議所の運営に最後まで情熱を注いでいたことがうかがわれる。
銅像建立
明治41年8月9日、諏訪公園丸馬場において、初代会頭・松田源五郎翁の銅像除幕式が、荒川知事、北川市長、永見商業会議所会頭ら官財界の知名士1,200余人が参列して盛大に行なわれた。長崎実業界の先覚者として、財界から一層の活躍を期待されていた松田源五郎翁は、急病により明治34年3月1日逝去。享年61才であった。
なお、この銅像は、太平洋戦争中、金属供出のため撤去されたが、戦後長崎商工会議所と十八銀行が中心になって再建が進められ、長崎市出身の彫刻家・日展審査員の富永直樹氏の彫塑によって、昭和38年4月5日、現位置に復元された。
2.商工業従業員の実務教育 (大正11年4月)
日露戦争は、わが国産業経済に飛躍的発展をもたらす機会となり、明治後期から大正期にかけて百貨店の出現、丁稚制度に代わる通勤給料形態の店員制度の採用、洋式複式簿記の普及など商業の近代化が急速に進んだ。
このような時代の流れのなかで、長崎商業会議所は、商業従事者の資質の向上をはかるため実務教育に力を注ぐことになった。大正11年4月、実業補習教育長期講習会を開講、さらに同15年1月から商工業実務員学力検定試験を実施したが、実業教育を受ける機会に恵まれなかった当時、向学心に燃える商業従事者の期待に応えるものとして好評を博し、毎回盛況を呈した。
実業補習教育長期講習会
商業従業員に対して夜間を利用して実務に必要な学科の補習教育を行なうことを目的として開くことになったもので、第1回講習会は大正11年4月1日から翌12年3月28日まで、毎週、月・水・金曜日、夜間2時間、講習生55人が聴講して開かれた。
講習科目は、(1)商事要項 (2)経済大要 (3)商業英語 (4)商業算術 (5)商業簿記 (6)商業作文(7)珠算で、長崎市立商業学校の須藤教諭らを講師として授業を行なった。この講習会は、翌年も36人の講習生が参加して開かれたが、小学校での実業補習教育が充実してきたのに伴い、その年限りで廃止されることになった。
商工業実務員検定試験
正規の商業教育を受けることができない商工従業員に対して、甲種商業学校卒業程度の学力を標準として学力の検定試験を行ない、資格を与えようとするもので、第一回検定試験は、大正15年1月22日から24日まで行なわれた。試験委員に長崎高等商業学校の教授陣を委嘱して、(1)法制経済 (2)商事要項 (3)商業地理 (4)商業算術 (5)簿記 (6)英語 (7)作文の各科目について試験を行ない、全科目合格者に学力検定証書を、科目合格者には学科合格証書を授与する制度であった。
こうした従業員の人材育成事業は、今日の商工会議所においても主要事業の一つとなっており、これまでにも時代のニーズに対応すべく、珠算・簿記に加えてDCプランナー、福祉住環境コーディネーター検定、環境社会(ECO)検定などの新しい検定試験や講習会が実施されている。
大正時代に実施された実務教育や検定試験は、今日の各種検定試験制度の先駆けといえる。
3.宮日振興会の設立 (昭和4年9月)
昭和2年の金融恐慌の後、不況はますます深刻となり全国に蔓延していった。長崎市の経済界も活気を失って沈滞し、社会不安の気配が強まっていた。
こうした折から、長崎商工会議所は景気挽回策について論議を重ねていたが、そのなかで「諏訪神社の大祭〝くんち〟を内外に宣伝して来遊客の誘致を図ったらどうか」との意見は、会議所あげて賛同することになった。会議所は、さっそく市、神社当局とも協議のうえ具体的方策の準備にとりかかり、10月の〝くんち〟を目前に控えた昭和4年9月、長崎宮日振興会(会長・松田精一会頭)を設立、ただちに事業に着手した。
振興会の事業は〝くんち〟の案内宣伝文の作成、奉納踊観覧施設の設置、立看板の作製などを行ない、内地はもとより海外に向け観客の誘致に努めることであった。この事業は、昭和12年の日支事変勃発まで毎年、継続的に実施されたが、それ以後は戦局の進展に伴って祭自体が質素になり、19年には中止されるに至ったので、振興会そのものも自然消滅することになった。
4.長崎開港記念会の創立とながさきみなとまつり (昭和5年4月)
長崎港は、鎖国時代わが国唯一の海外に開く窓口として中国や西欧文化輸入の門戸となり、日本近代文明発展の原動力の役割を果してきた。また、明治維新後も、わが国有数の貿易港として長崎市の繁栄に大きな貢献をしてきた。しかしながら、このように輝かしい歴史を有する長崎港も、開港の時期さえ不詳で、開港を記念する行事等は、全く行なわれていなかったので、市民の港に対する関心は、とかく薄れがちであった。
長崎商工会議所は、かねてから長崎港に対する市民の認識を深め将来の一層の発展を期するため長崎港の開港を記念する行事について論議を重ねていたが、昭和5年4月、史学者の古賀十二郎氏らに委任して史実によって長崎開港を元亀2年(1571年)と認め、開港記念日を4月27日とすることに決定するとともに、県・市・海事関係官署とはかって、記念行事を執行する機関として長崎開港記念会を設立することになった。
長崎開港記念会(会長・松田精一会頭)は、昭和5年4月7日に創立委員会を開き、会則、事業計画を定めるとともに、ただちに記念行事の準備に着手した。記念行事は、〝長崎みなと祭〟と呼称して、4月27日の諏訪神社中庭における記念式典をはじめ、貿易展覧会、記念講演会、旗行列、港の映画大会、各市大売出しなど多彩な催しを行い市民の非常な人気を呼んだ。
この〝長崎みなと祭″は、以後、戦時中を除いて毎年、定例的に実施されてきたが、昭和48年から〝ながさきまつり″と改称、行事内容も改変して、ひろく市民の参加を呼びかけて多彩な催しを行なってきた。
その後、毎年の恒例として、4月27日の初日には、先賢顕彰式、ミス長崎(現在のロマン長崎)選彰式、28日は、まつりの夕べ、29日には、市役所前から県庁通り、浜の町までのコースをミス長崎を先頭に、議員団の仮装行列、民謡団、企業グループなど総勢約1万人規模のパレードで賑わった。平成5年からは、メイン会場を魚市跡地のポートアリーナに移動。翌6年からは、長崎の新しい夏祭りと位置付けて、メイン会場を松が枝国際観光埠頭に移し、開催日も7月29日から31日に変更。従来のパレードに加えて、花火大会、長崎ペーロン選手権大会、各種イベントを開催した。
今日のながさきみなとまつりは、商工会議所青年部が中心となって開催されており、夏の風物詩として定着している。
5.長崎県商工連合会の結成 (昭和7年9月)
商工会議所の全国組織として明治25年9月に全国商業会議所連合会(昭和3年5月、日本商工会議所に改組)が結成され、つづいて同39年4月には、九州、沖縄、山口ブロックの西部商業会議所連合会が組織され、全国的あるいはブロックに共通する諸問題について活発な意見活動を展開していた。
しかしながら、昭和3年に商工会議所法が制定された当時においても、長崎県内の商工会議所の連合組織は結成されていなかったため、各会議所固有の問題はもちろん県内商工業者に共通する問題についても、各地の会議所が個別に問題解決に当っている実情であった。こうしたことから、会議所をはじめ県内の商工会等から必然的に連合組織の結成を望む声が高まっていた。
そこで、長崎商工会議所は、佐世保商工会議所に呼びかけて県内商工団体の連合組織を設立することとし、諸般の準備を急いで進めた。
長崎県商工連合会の創立総会は、昭和7年9月30日、長崎商工会議所で県内の商工会議所など42団体の代表71人が参集して開かれた。会長に長崎商工会議所、副会長に佐世保商工会議所、評議員に諌早、大村など10商工会を指名、理事に長崎、佐世保両会議所理事を挙げた。
連合会は、以後毎年1回、総会を開催、各商工会議所、商工会の地域的な事柄あるいは全県的な問題について建議、要望を行なっているが、昭和18年10月、各地の商工会議所を統合して長崎県商工経済会が設立されるに及んで、連合会もこの中に吸収されることになった。
6.国際産業観光博覧会の開幕 (昭和9年3月)
昭和恐慌をくぐりぬけ、ようやく活気をとり戻した昭和9年、長崎にパッと花開いたのが、長崎市主催の国際産業観光博覧会の開幕であった。
同博覧会は、昭和9年3月25日から5月23日まで3カ月間、中の島埋立地で開かれた。会場には国内の各種の展示館のほかに朝鮮、台湾、満州などの特設館と演芸館、野外劇場も設置され、長崎市始まって以来の大がかりな博覧会は市民の眼を奪い、県内外からも連日多数の見物客が訪れた。
長崎商工会議所は、この博覧会開催に大きな役割を演じた。市当局から博覧会開催の計画を発表されるや、商工会議所はこれを成功させるために会議所あげて協力することになり、前年6月16日の議員協議会で協賛会組織を設けることを決定、8月8日に発起人会を開いて、国際産業観光博覧会協賛会(会長・脇山啓次郎会頭)を設置、さっそく会員募集と寄付金勧誘にとりかかった。
協賛会の主な事業は、(1)演芸館建築 (2)歓迎門・装飾塔設置 (3)立看板・ポスター作成 (4)花自動車宣伝隊 (5)福引 (6)休憩所・案内所 (7)演芸館・野外劇場の演芸などであったが、これらの事業に要した費用はすべて商工業者有志の寄附によって、まかなわれた。記録によれば寄附金収入は、11,651口、151,278円15銭となっている。
7.大長崎建設の構想 (昭和11年3月)
世紀の事業として世界の耳目を集めていた関門海底鉄道トンネルが開通し、東京直通の「特急富士」が長崎に始めて乗り入れたのは昭和17年11月15日のことであった。
これより6年前、昭和11年9月に同トンネルは着工されたが、長崎商工会議所は、同トンネルの開通は、長崎市をわが国の南進基地として飛躍的に発展させる絶好のチャンスと判断し、市当局にも働きかけて、大長崎建設のための具体的方策を練り、その実現を促進する機関として大長崎振興会の設立準備を進めていた。
大長崎振興会の創立総会は、同11年3月30日、市会議場で、市長・笹井幸一郎、商工会議所会頭・脇山啓次郎、同副会頭・山田鷹治の各氏をはじめ官民有力者100余人が出席して開かれるに至った。総会は、会則案を議定した後、役員選任を行ない、会長に笹井市長、副会長に脇山会頭、大石市会議長を推し、笹井会長から常務理事2人、理事30人、顧問21人を推薦、同年度予算3,500円を可決して閉会した。
次いで同年4月11日、第1回理事会を開き、次の各項について具体的計画を協議し、さっそく、その実行に移ることになった。
○長崎港湾改良修築並びに海陸連絡改善に関する件
○長崎駅並びに長崎線鉄道の改善に関する件
○長崎空港開設に関する件
○逓信施設整備改善に関する件
○産業都市の建設に関する件
○長崎観光施設の整備に関する件
こうして、振興会は、長崎港修築、長崎駅改築、観光ホテル建設など当面緊急とする事項を取りあげて、その実現促進に乗りだしたが、たまたま支那事変が勃発したため、新規事業はすべて中止せざるを得なくなり、ただ事変の影響を受けた日支連絡船の長崎・上海折返運行が実現したのみであった。
振興会は、その後も、長崎振興に関する幾多の問題を取りあげ、種々対策を講じて大長崎建設推進の基本的役割を演じたが、支那事変から太平洋戦争へと戦局の激化に伴って、その構想は実現を見ないまま終戦を迎えることになったのである。
8.商工相談所の開設 (昭和11年10月)
長崎商工会議所は、昭和3年の改組を機として、中小商工業者の改善発達に資する目的で商工相談事業を開始した。しかしながら、広く一般に周知されていなかったことに加えて、金融恐慌につづく深刻な不況のなかで、中小商工業者は経営不安に陥り、積極的に事業の拡大発展をはかろうとする意欲を失っていたので、相談のため会議所に来訪する中小商工業者は極めて少かった。
その後、満州事変から支那事変へと大陸政策の進展は、軍需工場の好調、対満貿易の躍進等を招き、中小商工業もようやく活気を取り戻したが、反面、金融問題、税金問題をはじめ中小商工業が抱える問題も多元的になった。
そこで、会議所は中小商工業著が抱える諸問題の解決に積極的に対応するため、昭和11年10月1日から商工相談所を開設、それまでの相談事業を大幅に拡充するとともに、広く中小商工業者に案内状を配布して、その利用促進に努めた。記録によれば初年度(11年10月~12年3月)の利用実績は1,671件にのぼり、相談内容では商取引に関する事項が1,018件で過半数を占め、商工業者の活気が満ちてきたことを物語っている。翌年以降、商工相談所の相談実績は逐年増加の一途をたどったが、戦時経済体制への移行に伴って、応召軍人家族の商工経営、企業合同、転廃業相談など相談事項も次第に変容していった。
戦後、昭和23年から、商工相談所は中小企業相談所と改称して再発足したが、35年からは国の小規模企業施策の強化とあいまって小規模企業階層の指導に重点をおくことになり、専任の経営指導員を配置するなど相談所の機構と機能は大幅に拡充された。
現在、中小企業相談所に中小企業振興部と業務部を配し、経営指導員13名、経営支援員5名体制となっている。
9.珠算能力検定試験開始 (昭和13年10月)
商工会議所の珠算能力検定試験は、数ある珠算検定制度のなかでも最も歴史が古く、権威あるものとして社会的に高い評価を受けているが、長崎商工会議所が初めて珠算の検定試験を行なったのは昭和13年である。
長崎商工会議所は、商業従業者、商業学校生徒の珠算能力の進歩向上に資するため、昭和11年から毎年1回、長崎市立商業学校、長崎女子商業学校と共催で、長崎県珠算競技大会を開いていたが、13年から競技大会にあわせて検定試験を実施することになった。
その年の競技大会は、10月23日に長崎市立商業学校で開かれた大会にひきつづき、初めての検定試験が実施された。受験者は120人で、審査の結果70人が最初の合格証書を手にした。
以後、毎年1回、競技大会とあわせて実施されたが、昭和19年から日本商工会議所最初の検定制度にとりあげられ、それまで各地の会議所が独自で随意に実施してきた検定試験を統一して、全国同時に同一問題で実施することになった。
以来、日本商工会議所と共催で実施、戦後、珠算熱が高まったこともあって、受験者は急速に増加の一途をたどり、昭和50年代には6,000人を超える盛況を呈していた。
10.長崎市商工団体連合会の結成 (昭和14年6月)
昭和12年に勃発した支那事変は泥沼の様相を呈し、終結のメドもつかないまま拡大していった。国内は準戦時体制から戦時体制となり、諸種の統制が加えられた。13年には国家総動員法が公布されて軍需産業拡充のための産業再編成が強行され、平和産業部門の中小商工業は大きな打撃を受けた。
このような情勢のなかで、長崎は大陸進出の拠点として、ますます重要な地位を占めるようになったが、長崎商工会議所は、各種商工団体が結集して国策協力の実をあげるため、長崎市商工団体連合会の結成を各団体に呼びかけた。
連合会は、全市181組合(組合員総数約15,000人)で組織され、昭和14年6月7日、会議所で創立総会を開いた。総会には各組合の代表112人が出席し、会則審議の後、役員選任を行ない、会長に山田鷹治商工会議所会頭を推した。連合会は、(1)所属商工団体の提案に係る事項の審議遂行 (2)経済統制諸法令の周知徹底 (3)物価調整の実行確保 (4)非常時商工経営対(5)応召商工業者の営業援護などを主な事業としたが、その発足を祝い、商工団体相互の融和団結の促進と商工業従業員の体育向上を図る趣旨から、翌15年12月8日、長崎市民運動場で体育大会(以後17年まで毎年開催)を開いた。記録によれば、この大会には、23三団体から500余人の選手が参加して競技を行ない、男子優勝の魚問屋組合が会議所会頭旗を、女子優勝の菓子工組合が市長旗を獲得している。
さらに、時局がいよいよ切迫した昭和16年4月には、連合会が主体となって長崎県商業報国会長崎支部を結成し、(1)新商業倫理の確立 (2)商業新秩序の確立 (3)統制順守を実践要綱に掲げ、商業報国運動を積極的に展開することになったが、やがて、すべての生活必需物資が不足して配給制となり、商店は配給の末端機関と化して商業本来の機能は全く失われることになった。
11.戦時経済の進展 (昭和16年12月)
昭和16年12月、太平洋戦争に突入するに及んで、わが国は完全な戦時体制となり、統制は加速度的に強化されていった。国力のすべてが軍事生産力拡充に集中され、民需産業はいちじるしく抑制されて生産販売活動の縮小を余儀なくされ、次第に活力を失っていった。生活必需物資は欠乏し、国民は″欲しがりません。勝つまでは〟を合言葉にして耐乏生活を強制された。
長崎県の産業界も、造船、石炭などの軍需産業は高度の増産体制がとられ活況を呈したが、反面、一般中小商工業は軍需工場への転換、企業整備による統合、整理を迫られ、商業従事者は軍需工場や炭鉱に徴用されていった。
国の総力をあげての決戦経済体制も戦局の悪化に伴って破綻の兆しをみせ、軍需生産力は昭和18年をピークとして急速に下降していった。さらに、19年7月のサイパン島失陥を契機として重要戦略物資の海上輸送は途絶し、国内の生産・輸送施設も空襲激化によって徹底的に破壊されるに至って、わが国経済の破局は決定的となった。
こうした戦時経済の進行の過程で、長崎県商工経済会の任務は、長崎県当局と一体となって、経済行政の円滑な運営をはかることであった。すなわち、(1)統制法令の周知 (2)産業団体間の連絡調整 (3)統制組合の整備 (4)配給機構の確立 (5)行政当局に対する答申などが主要な事業であった。その具体的な実施事業をみると、(1)経済行政に関する説明会・懇談会の開催 (2)町村役場に商工相談所の開設 (3)経済団体懇話会の結成 (4)商工組合の設立指導 (5)企業整備等に関する行政当局の諮問に対する調査と答申などであった。
しかしながら、経済体制が破綻した戦争末期には、商工経済会が果すべき役割もほとんど無くなり、戦意高揚のための講演会の開催や軍需工場慰問団を組織する機関に過ぎないような状態に陥っていった。そうして20年8月9日、原子爆弾によって長崎市の大半が焦土と化するに至って、長崎県商工経済会も自然消滅し、間もなく終戦を迎えることになったのである。