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昭和21年(1946) ~昭和53年(1978)

1.長崎県商工会議所連合会の再発足 (昭和22年1月)

 戦時中に、商工会議所に代わり国策協力機関として各都道府ごとに設立された商工経済会は、昭和21年10月、全国いっせいに解散されることになったが、時を移さず、全国各地で商工会議所の設立があい次ぎ、長崎県内でも長崎をはじめ佐世保・諫早・大村・島原の各市に新商工会議所が次々に誕生した。同年12月には、早くもその全国組織として日本商工会議所が復活したが、県内会議所でも、これに対応した連合会の結成を急ぐことになった。
 長崎県商工会議所連合会の創立総会は、22年1月14日、長崎商工会議所で各会議所の代表者が出席して開かれ、規則、事業計画、収支予算を議決したあと、会長に中部長崎会頭、副会長に北村佐世保会頭を選んで、新体制による連合会の発足をみることになった。
 連合会は、2月27日に諫早商工会議所で、さっそく第1回連絡会議を開いて当面する諸問題について協議、ただちに政府ならびに県・市当局に対し「日銀支店の長崎誘致」と「商工組合中央金庫の機構拡充」に関する陳情書を提出しているが、こうして県連組織が確立されたことによって、各会議所間の連絡提携が緊密になり会議所活動の強化をもたらすことになった。
 その後、福江、江迎、平戸、松浦に商工会議所が設立され県内の商工会議所は9会議所となり現在に至っているが、要望活動を中心に議員大会の開催、職員研修会など幅広い事業を行なっている。

2.自立経済への動き (昭和20年代)

 終戦後の混乱とインフレの高進、そうしてドッジ・デフレから朝鮮動乱ブームへと、昭和20年代前半の日本経済は、戦争の傷跡が完全に回復しないまま激しい変動をくりかえしながら推移した。
 こうしたわが国経済の変転のなかで、長崎市の産業界は、戦後いち早く立ち直った漁業とこれに関連する中小造船業や水産食品工業の好調に支えられて漸次、活況をとり戻したものの、基幹産業である大手造船業や炭鉱が停滞から脱することができなかったため、地域経済前途の展望も開かれず、商工業者の経営は依然としてきわめて不安な状態にあった。
 昭和25年6月に勃発した朝鮮動乱は、安定恐慌下のわが国経済に特需ブームをもたらし、経済界は予期しない好況に沸いたが、翌26年7月には、早くもその反動を受けて再び深刻な不況に陥り商社や問屋の倒産が続発、中小商工業の経営は、ますます苦しくなっていった。
 こうした情勢のなかで、同年9月、対日講和条約が調印され、翌27年4月に発効して、わが国は6年余にわたる占領行政からようやく開放され独立を回復することになった。政府は政治的独立とともに経済の自立を期することになり、基幹産業の生産拡充と輸出産業の国際競争力強化をはかるため積極的な政策を推進したが、そのため経済界にも活気がよみがえり、30年代の高度成長へ向って胎動を始めるに至った。
 長崎の経済界でも、講和条約の成立を機として予想される新しい事態に対応するため、地域経済の本格的な再建、繁栄をはかろうとする気運が高まりつつあったが、長崎商工会議所は、各業界の意見を集約して積極的にその推進をはかることになり、県・市と一体となった地域経済の長期構想、具体的方策に努める一方、経済界が当面する諸課題について行政当局をはじめ関係幾関に対し熱烈な意見・要望活動を展開した。昭和26年度事業報告書によってその実績の一端をみると、(1)電話通信施設の拡充 (2)国鉄輸送力の増強 (3)長崎港湾施設の整備 (4)外航定期航路の開設 (5)政府機関の誘致 (6)独占禁止法の改正 (7)税制の改正 (8)金融の拡大 (9)通商貿易に関する条約協定の締結促進 (10)中国による漁船不法拿捕の防止など、多岐にわたって諸般の問題をとりあげており、その積極的な活動状況をうかがうことができる。

3.くんちの復活 (昭和23年)

八坂神社にて披露された万屋町の鯨の潮吹き
 戦後23年に〝くんち″は復活したが、当時は物資不足の折から、その運営には多くの困難を伴った。長崎商工会議所は、翌24年4月戦前の宮日振興会に代わる長崎おくんち振興会を結成し、"くんち″の円滑な運営と振興に当ったが、その後、時勢の推移に合わせて数次の改組を行ない、現在の長崎伝統芸能振興会に至っている。この間、踊町に対する財政面の援助、踊町の編成替え、参加を辞退する踊町との折衝など〝くんち〟の存続と興隆にかける振興会役員の情熱と苦労は、なみ大抵のことではなかった。
 元和9年、(1623年)に始まった伝統ある〝長崎くんち″も長い年月の間には盛衰もあり、とくに戦後は、町界町名の改革、財源、人手不足問題などの悪条件が重なって、存続さえ危ぶまれる時期もあったが、今や、日本三大祭のひとつとして全国的に有名になり、昭和54年2月には重要無形民俗文化財に指定され、平成17年には「高円宮殿下記念地域伝統芸能賞」を受章するに至った。こうした〝長崎くんち″の変遷の歴史のなかで、振興会が果してきた役割を忘れてはならない。

4.造船業の再興と計画造船 (昭和28年8月~)

 戦後、わが国経済の復興をはかるうえにおいて、第二次世界大戦によって壊滅にひんした海運業の再建が急務であった。
 昭和22年、政府は、海運業の再建整備を急ぐため船舶公団を設立し復興金融金庫資金を投入して、公団・船主共有方式による計画造船を開始した。この計画造船は、24年から対日援助見返資金融資による船主単独建造、さらに28年からは日本開発銀行融資に改められたが、敗戦により軍需生産を打ち切られ低迷を続けていた造船業界にとっては、大量受注確保の道が開かれたため起死回生の策となり昭和20年代の造船業界の主導的役割を演じたのである。ちなみに、22年~28年の建造許可量をみると、238万総トンのうち計画造船が実に168万総トン(70.5%)を占めている。
 戦後、漁船や炭車の生産から再開した三菱長崎造船所も昭和25年頃から、ようやく本格的な生産体制をととのえ、活況を呈するに至ったが、その主力は計画造船で圧倒的な比重を占めていた。
 こうした造船業の実情から、造船業に大きく依存する長崎の経済界は、計画造船の動向に重大な関心を払っていたが、とくに、政府の緊縮政策による第十次計画造船(昭和29年)の大幅削減と造船疑獄事件がからんだ決定遅延は、造船業界のみならず地域経済全般に深刻な影響を及ばすものとして経済界に大きな衝撃を与えた。
 こうした情勢のなかで、長崎商工会議所は、計画造船の拡大、地元受注の確保をはかるため、第9次から第11次計画造船にかけて活発な陳情、要望活動を展開した。さいわい三菱長崎造船所は施設、技術、信用、実績すべての面において他造船所よりすぐれていたため、毎次、大量受注に成功し30年代の輸出船ブームを迎えることになったのである。主な陳情、要望活動は次のとおり。
○昭和28年8月10日 ・第9次計画造船後期船の三菱長崎造船所への発注について
○昭和29年4月20日 ・第10次計画造船の可及的拡大と緊急実施について
・計画造船および保安庁艦艇の重点的発注について
・造船に対する国家助成策の継続強化について
○昭和30年1月13日 ・第11次計画造船の早期具体化と輸出船の助成について
○昭和30年2月9日 ・第11次計画造船の可及的拡大と速やかな割当発注について

5.拿捕漁船・抑留船員の返還運動 (昭和30年2月~)

韓国拿捕の日本漁船漁民の 救済方について陳情を行なった ことを伝える会議所ニュース (昭和30年10月号)
 戦後、日韓両国の間には、戦前の経緯からの賠償、在日韓国人の取り扱い、在韓日本財産の請求権など数々の問題が横たわっていた。昭和27年2月15日、日韓関係修復のため日韓会談が開始され、折衝が重ねられたがなかなか合意に達せず、会談はしばしば中断される状態にあった。
 こうした情勢のなかで、韓国の李承晩大統領は、昭和27年1月18日、突如として、一方的に李ラインを設定し、朝鮮近海に出漁する日本漁船に対し、ライン外への退去命令や拿捕等の実力行使を始めた。
 この韓国の行動は、漁船の安全操業に支障をきたし、とくに屈指の水産県である本県は、その影響はきわめて大きく、水産業界の死活問題であるばかりではなく、人道上の問題でもあるとして騒がれた。
 ちなみに、昭和30年10月1日付の「会議所ニュース」は「韓国政府による漁船の拿捕は201隻、2,614人にのぼり、そのうち長崎県は末帰還だけで23隻255人を数え、留守家族の不安・焦慮、水産業界の窮状は目にあまるものがある」とその実情を報じている。
 長崎商工会議所は、こうした事態をいつまでも放置することは許されないとして、政府に対し、日韓会談の再開を急いで、拿捕漁船・抑留漁船員の早期返還と漁船の安全操業確保をはかるよう、あらゆる機会をとらえて陳情、要望を熱烈に行なった。その主なものは次のとおり。
○昭和30年2月9日 鳩山総理大臣
・日韓会談の速やかな再開促進について
○昭和30年2月22日 九州商工会議所連合会総会
・日韓会談の速やかな再開と漁業の安全操業の措置について
○昭和30年8月7日 アリソン駐日米国大使宛
・李ライン撤廃について
○昭和30年9月12日 日商会頭宛
・韓国拿捕の日本漁船・漁民の救済について
○昭和30年12月7日 日商臨時会員総会
・日韓会談の再開促進、抑留漁船員及び拿捕漁船の即時送還
・李ライン問題に基づく水産業者の損害補償と抑留漁船員の家族援助について
 政府も、事態を憂慮して、いろいろな手段を講じながら韓国当局と交渉を重ねたが難航を続け、昭和32年9月に至って、ようやく抑留者の釈放問題が妥結し、最終的に、日韓両国間の漁業関係協定の調印をみたのは40年6月のことであった。

6.長崎港の振興策 (昭和30年5月~)

 断絶したことによって、内外船舶の出入が激減し衰退を余儀なくされた。経済界の熱心な運動によって、昭和28年8月には、長崎税関の発足をみたものの、30年代初期の定期航路は、離島・沿岸航路を除けば、27年11月に開設された琉球航路のみであった。背後地の不利から、貿易高も、輸出では、三菱造船所で建造される外国船舶が全体の九割強を占め、他は欧州向みかん罐詰めなどが積み出される程度であった。また、輸入も鉱油が主体で、その量も微々たるものであった。
 一方、博多湾では、戦後いち早く港湾施設を完備するとともに、東南アジア航路を誘致し、関門港と競って全九州の輸出入貨物の門戸となろうとしていた。
 こうした情勢のなかで、長崎商工会議所は、このままでは長崎港の貿易港としての将来が危ぶまれるとして、戦後間もない昭和27年の関係業界による長崎貿易協会(昭和37年長崎県貿易協会に改組)を設立し、これと協力して香港航路の誘致、輸出貨物の集荷、琉球経済視察団の派遣など輸出の伸長に努めるとともに、港湾施設の拡充、海事関係官公署の整備などに関して、政府はじめ関係方面に積極的な意見、要望を重ねた。その主なものは次のとおり。
○昭和30年5月20日 長崎税関長宛
・梅ケ崎上屋の指定保税地域の設定について
○昭和31年7月1日 長崎県知事宛
・長崎港の施設増強改善促進について
○昭和32年1月17日 政府・関係方面宛
・日中連絡船の再開について
○昭和34年8月29日 運輸大臣ほか関係先宛
・海事関係合同庁舎の建設について
○昭和34年12月15日 長崎県知事・県議会議長宛
・出島岸壁に上屋倉庫の建設について
○昭和36年4月3日 海運会社宛
・長崎~香港航路の開設について
○昭和36年7月4日 衆議院運輸委員会宛
・長崎外港の整備について
○昭和36年8月3日 長崎県知事・長崎市長宛
・香港航路の維持助成について
○昭和36年9月11日 長崎市長・市議会議長宛
・臨港用地・倉庫施設確保について
○昭和36年12月16日 長崎県知事・長崎市長宛
・東南アジア貿易発展のための航路維持について
 昭和47年8月には、長崎港貿易促進協議会を設立し、地理的悪条件を克服しながら、輸出貨物の集荷に努める一方、行政当局に対し港湾施設の一層の整備を求めるなど地道な活動を行なっているが、今後、陸上交通体係・港湾施設の整備、拡充とあいまって、中国貿易の拡大、日中連絡船の再開、観光船の誘致に大きな期待がかけられることとなった。
 その後、業界からの要望や「長崎港の活性化に係る調査研究報告書」(平成8年度~長崎港活性化推進委員会)や「(仮称)長崎港活性化センター設立提案書」(平成9年度~同委員会)により、平成10年3月、長崎貿易促進協議会は臨時総会を開催して、長崎市貿易協会との合併・一本化に向けて組織再編(解散)することを決定。平成10年4月に長崎港貿易促進協議会と長崎市貿易協会を合併、長崎港活性化センターを新しく発足させ、官民一体となった長崎港活性化への取り組みが図られることとなった。

7.初の長崎県商工会議所連合会議員大会を開催 (昭和30年6月)

 新商工会議所法の施行に伴い、長崎県下の長崎・佐世保・鳥原・諌早・大村・福江の各商工会議所は、昭和29年にあい次いで組織変更を行ない、特殊法人商工会議所として再発足し、さらに、翌30年には江迎商工会議所が新設された。
 長崎県商工会議所連合会は、これを機会に、各商工会議所間の連携をさらに強め、結束を固めていくために、昭和30年6月16日、長崎商工会議所で初の議員大会を開催した。
 大会は、中部長崎商工会議所会頭をはじめ県下の各商工会議所の役員・議員150余人が出席し、西岡長崎県知事、鈴田長崎市助役らを来賓に迎えて開かれ、中部会頭の開会挨拶、来賓祝辞のあと、議事に入った。
 各商工会議所から提出された29件の議案について、それぞれ提出会議所議員から趣旨説明を行ない、全議案を議決、ただちに関係方面に陳情、要望を行なうことにした。ちなみに、長崎商工会議所からの提出議案は、(1)特定商工業者の基準の引き下げ (2)日韓会談の再開促進 (3)民間空港の設置 (4)有明海航送船の早期実現 (5)長崎・諫早間の国鉄新路線の開設 (6)中小企業金融公庫支店の設置と中小企業金融機関の資金量増大 (7)貸出金利の引き下げ (8)信用保証協会の拡充であった。
 最後に「長崎県下商工会議所は、県下基幹産業の振興と中小企業の健全な発展のために総力を結集して会員は勿論、特定商工業著その他一般業界の与望に応えて所期の目的達成に努め、あわせて本大会の決議事項の貫徹を期する」との決議を採択して閉会した。

8.大型店の進出と商業活動の調整 (昭和31年7月~)

 終戦当時、物資の欠乏から休業同然の状態にあった小売業界はその後、わが国経済の復興再建が進むとともに、次第に活気をとり戻していったが、反面、商店の急激な増加は、販売競争の激化を招くことになった。とくに、百貨店の新増設は、これに拍車をかけることになり、中小小売商業者の営業活動に大きな影響を及ぼすことになった。
 昭和31年5月、政府は、中小小売商業者の要望に応えて、百貨店法を公布、6月から施行して百貨店の営業活動に規制を加えることにした。百貨店の新増設は許可制となり、その決定にあたっては地元商工会議所の意見を徴することとされた。
 しかしながら、当時、新しく出現した大型小売店いわゆるスーパーは、百貨店法の規制を受けなかったため、各地に店舗の展開を急速に進め、40年代を迎えて小売業界の競争はますます激化することになった。
 昭和48年10月、政府はこれら大型小売店の出店を規制するため、百貨店法を廃止して、大規模小売店舗法を公布、翌49年3月から施行した。百貨店を含むすべての大型小売店の新増設は届出制となり、店舗面積、営業開始時期等の諸条件については地元商工会議所で調整することとされた。
 さらに、50年代に至り、大規模小売店舗法の基準に達しない中規模店についても規制を望む声が強まり、その出店をめぐって地元小売業者との間に紛争を生じる事例が全国各地で頻発した。こうして、53年11月、大規模小売店舗法の改正が行なわれ、54年5月から中規模店についても規制が加えられることになった。
 こうした全国的な小売商業界の動きのなかで、長崎市の小売業界においても、昭和30年代から40年代前半までは、既存百貨店の増築だけにとどまったものの、40年代後半に至って、佐世保玉屋長崎店、ダイエー長崎店など大型店の出店があい次ぎ、販売競争は一段と激しさを加えることになった。
 さらに50年代を迎えて、大型店の店舗展開は、マイカー時代を背景として郊外新興住宅街の周辺地域に向けて進められた。西友道の尾店、寿屋時津店など駐車場を完備した郊外型スーパーの出現は、既存商店街に新たな脅威となり、駐車場の整備が商店街にとって大きな課題となった。
 長崎商工会議所は、こうした百貨店、スーパーの進出、拡張がつづくなかで、中小小売業の経営の安定をはかるため、大型店と中小小売店の間に立って、積極的に調整活動を進めてきた。すなわち、昭和31年7月、百貨店法に基づく商業活動調整協議会を設置、さらに46年5月にはスーパー進出問題を調整する商業問題調整懇談会(昭和49年3月、大規模小売店舗法の施行に伴い廃止)を併設して、31年8月の浜屋百貨店の増築計画から最近のアサヒストア深堀店出店計画に至るまでの間、数々の案件について調整を行なってきた。
 これら案件の調整にあたっては、大型店と中小小売店が対立する関係にあるだけに、しばしば紛議を生じ、調整作業は難航して、事態の円満解決をみるまでには相当の期日を要する事例が多かったが、なかでも、46年7月のダイエー出店の際は、初の中央大手スーパーの進出とあって、小売業界の猛反対運動が起こり、事態収拾にあたった協議会関係者の苦労はなみたいていのことではなかった。主な調整案件は次のとおり。
○昭和31年7月 1日  浜屋百貨店増設
○昭和41年2月 1日  岡政百貨店増設
○昭和44年5月23日 玉屋百貨店長崎店新設
○昭和46年7月21日 ダイエー長崎店新設
○昭和49年4月 1日  西友ストアー道の尾店新設
○昭和51年2月 4日  馬場家具センター葉山店新設
○昭和52年7月 9日  深堀アサヒショッピングセンター新設

9.小規模企業経営改善普及事業の推進 (昭和35年8月)

 昭和35年5月、主として町村に設置される商工会の整備促進と小規模企業の育成発展を図るため、商工会法が公布され同年6月から施行された。この法律の施行にともない、商工会議所、商工会は国の小規模企業対策の一翼を担って、小規模企業経営改善普及事業を行なうことになった。
 長崎商工会議所は、従前から中小企業相談所を設置して、中小企業の相談指導事業を行なっていたが、同年8月、小規模企業経営改善普及事業を開始するため、中小企業相談所に経営改善普及員(後に経営指導員と改称)4人を配置して指導体制を強化する一方、中小企業諸団体を通じて、その周知徹底に努めた。事業の内容は、経営・金融・記帳・税務・取引・労務など小規模企業の経営各般に関する相談指導をはじめ講習会・説明会の開催、小規模企業施策の普及など多岐にわたり、業況は逐年、繁忙の度を加えていった。
 こうした情勢に対処するため、経営指導員を増員する一方、39年1月には、記帳、税務の指導施設として税務相談所を併設、専担税理土、記帳指導員を置いて指導体制の拡充をはかった。
 しかしながら、それでもなお13,000を数える小規模企業に対応するためには不十分であったので、さらに48年7月には、経営指導員と小規模企業との間のパイプ役として業界団体の代表33人を小規模企業振興委員に委嘱し、その協力を得て事業の円滑な推進をはかることにした。
 こうして、昭和35年に発足した小規模企業経営改善普及事業は、指導体制の拡充(54年3月現在、経営指導員12人・記帳指導員14人・振興委員105人)とあいまって、逐年、拡大の一途をたどり、小規模企業の振興発展に重要な役割を演じているのみならず、小規模企業者の会議所に対する理解、認識を深めさせ、地域総合経済団体としての会議所組織の拡大にも大きな効果をあげている。

10.長崎婦人経営研究会の発足 (昭和36年6月)

 昭和36年6月7日、下筑後町の長崎荘で、長崎市内の婦人実業家有志30人が集まって、長崎婦人経営研究会の創立総会が開かれた。
 この研究会は、同年1月24日、東京商工会議所婦人経営研究会の一行7人(団長=東商議員・藤村千良ヘチマコロン社長)が来崎して平坂米子さん(平坂製薬社長)ら地元婦人実業家と懇談し「全国各地の婦人経営者が相互に連絡できる組織をつくりたい。そのため、長崎の婦人経営者もグループをつくって欲しい」と呼びかけたのに応じて結成されたものであった。
昭和44年5月に本所(大黒町所屋)で開催された 「第3回九州商工会議所婦人会連合会総会」
 創立総会では、平坂さんから、研究会結成の経過・趣旨について説明したあと、規約、事業計画、予算を審議、幹事5人(幹事長・平坂さん)を選んだ。
 研究会は、会員が相互に協力して、それぞれの企業の繁栄につとめるとともに、長崎経済界に婦人経営者の場を確立し、あわせて地域経済の発展に寄与することを目的とした。当初は月例勉強会や福祉施設慰問が主な事業であったが、昭和45年4月、長崎商工会議所婦人会と改称して組織の強化をはかり、会員45人(昭和45年3月末)の自主的な運営によって婦人の特性をいかしながら、勉強会、福祉施設慰問をはじめ、企業見学会、バス旅行、海外旅行、ながさきまつり参加など多彩な事業を行ない、現在に至っている。
 全国的に婦人会の活動の輪が広がる中、昭和44年5月には「第3回九州商工会議所婦人会連合会総会」、昭和61年11月には「第11回全国商工会議所婦人会連合会長崎大会」を長崎市公会堂で開催したほか、平成6年5月には「九州商工会議所婦人会連合会長崎大会」をハウステンボスで開催した。
 また、平成6年1月に車椅子を長崎市へ寄贈したことをきっかけに、その後、チャリティー事業を毎年実施し、その収益金により、長崎市の福祉施設への福祉機器の寄贈を継続して実施。平成15年12月には寄贈10回目を節目として長崎市長より感謝状が授与された。
この他、平成13年度には「長崎商工会議所女性会」に改称し、長崎県の補助事業「若手後継者等育成事業」を受託し、県内女性会との連携を図りながら経営者研修事業などを積極的に実施している。

11.雇用対策の推進 (昭和40年代)

 昭和30年代後半に至って、わが国経済は成長のテンポを急速に早め、いわゆる高度成長時代に突入した。
 産業界は競って設備の拡張を行ない、労働力の確保に懸命になった。40年代になって、企業の求人競争はいよいよ激化し、労働力とくに若年労働力のひっ迫を招来した。新規学卒者は大企業に集中し、中小企業は深刻な求人難に直面することになった。
 こうした現像は、長崎の産業界でも例外ではなく、企業経営において労働力の確保が当面の最大の課題となった。昭和47年4月には若年労働力の県外流出を防ぎ、地元就職を促進するため、長崎雇用対策協会が設置された。
昭和46年4月開催の 「第3回新卒市内就業者激励大会」
 長崎商工会議所は、こうした情勢にかんがみ、労務対策を事業活動の重点項目に掲げ、県、市当局に対して雇用確保対策の確立を求める一方、雇用対策協会と協力して、中小企業の求人難解決をはかるため、諸般の事業を積極的に推進した。
 その主なものをみると、(1)新規学卒者求人求職懇談会 (2)モデル賃金調査 (3)市内就職者激励大会 (4)就職希望中・高校生の職場見学会 (5)就職ガイドブック(企業紹介)発刊など多岐にわたっているが、これら一連の事業は、一部のものを除いて会議所の年次事業として毎年実施された。しかしながら48年暮のオイルショックを契機として、わが国経済は低成長へ移行し、企業は減量経営を余儀なくされることになったので、雇用情勢も一転し、造船離職者対策を中心に雇用対策の全面的な見直しを迫られることになったのである。

12.長崎開港400年を祝う (昭和45年4月)

 昭和45年は、長崎港が元亀2年(1571年)、ポルトガル船の来航により開港してから400年にあたる記念すべき年であった。
 長崎港の開港を記念する行事は、昭和5年、長崎商工会議所により設立された長崎開港記念会によって〝みなと祭″の呼称で、毎年4月27日の開港記念日を中心として開かれているが、長崎県、長崎市、長崎商工会議所では、400年の節目にあたり、日本近代開化の推進に大きな役割を果してきた長崎港の歴史をあらためて回顧するとともに、将来の飛躍的発展を期するため、とくに盛大に記念行事事業を行なうことになった。
 昭和44年10月、県・市・商工会議所によって「長崎開港400年記念実行委員会」が特設された。委員会は、名誉総裁に三笠宮殿下を戴いて、ただちに行事・事業の内容、予算等について検討を開始、専門部会を置いてそれぞれ準備を進めて、45年4月17日、行事・事業の細目について最終決定をみた。こうして、長崎開港400年を記念する各種の行事・事業は、例年どおり4月27日~29日を中心にして華やかにくりひろげられることになった。
 記念行事は、4月26日夜、市公会堂で催された前夜祭で幕を開け、NHKのど自慢、ミス・準ミス長崎選彰式、歌謡ショーと盛りだくさんのプログラムで、会場を埋めた約1,800人の市民を楽しませた。
 初日の27日は、大波止ターミナルビル前庭で、名誉総裁の三笠宮殿下ご夫妻をお迎えして、総裁(県知事)、会長(市長)ら関係者300人の参列のもとに、港繁栄祈願祭、先賢慰霊祭、記念碑除幕式、記念植樹式が行なわれ、港内では土井首ぺーロン協会によるペーロン競漕、夜は大波止突堤で花火大会が開かれて祝賀気分を盛りあげた。
 翌28日、市公会堂で、三笠宮殿下ご夫妻をはじめポルトガル、オランダ、中国の大使・公使、領事ら多数の来賓を迎え、各界各層の代表約2,000人が出席して盛大な祝賀式が行なわれた。
長崎開港400年を記念した祝賀パレード
 式典は実行委員会会長の式辞にはじまり、総裁の挨拶、名誉総裁三笠宮殿下のおことばがあったあと、故大村純忠公ら154人の先賢顕彰、来賓祝辞とつづき、ミス・オランダ、ミス・準ミス長崎による「友好の花束」贈呈が行なわれた。最後にアトラクションとして、オランダ万才や龍踊りが出され、なごやかな雰囲気のなかで閉式した。
 最終日の29日は、記念行事のハイライトである祝賀パレード。ミス・オランダ、ミス長崎を先頭に、官公庁職員の時代風俗行列をはじめ商工会議所議員団、華僑総会、商店街などによる仮装行列、中・高校、職域の音楽隊、婦人レクリエーション団体の舞踊大行進と続いて、総勢3,000人、延々6キロに及ぶ大パレードは沿道を埋めた15万人の大観衆の大かっさいを浴びた。こうして4日間にわたる開港400年を祝う記念行事は大盛況のうちに閉幕したが、このほか、年間を通じて各種の記念行事・事業が行なわれた。

13.会員共済制度の創設 (昭和47年8月)

 長崎商工会議所は、会員対策の一環として、会員事業所の経営者や従業員の福祉の増進、さらには経営の安定に資するため、昭和47年8月から「生命共済制度」を創設した。
 この共済制度は、商工会議所の大きな会員組織を活用して、いわゆる〝規模の利益〟によって、経営者や従業員が万一死亡したり不慮の事故によって傷害を受け、入院する事態が起こった場合に、少ない負担(掛金)で大きな保障(給付)が得られる仕組みである。
 そのため、大企業にくらべて福利厚生面で恵まれていない会員中小企業の好評を博して、制度発足当初から好調な滑り出しをみせ、加入者数は逐年、急速に増加した。
 さらに、48年8月には、従業員の退職金を確保するための「特定退職金共済制度」を創設、つづいて49年1月から「経営者年金共済制度」、53年2月から「大型生命共済」をそれぞれ創設したが、いずれも発足以来、堅調に推移した。これら一連の共済制度は、今や会員対策事業の大きな柱となっているばかりでなく、商工会議所の財政面や会員増強の面でも大きな役割を果たしてきた。
 その後、戦後3番目に長い好況期間となった平成5年以降10年間のいわゆるバブル景気をピークに、各共済制度の加入者は減少傾向に転じている。こうしたなか、会員中小企業の福利厚生は必ずしも十分とはいえない状況にあるため、退職金制度の完備や安心して働ける職場環境づくりの実現に貢献するためにも、引き続き、各種共済制度の普及推進に努めている。

14.国鉄浦上新線の開通 (昭和47年10月)

 昭和47年10月2日、国鉄長崎本線の浦上~喜々津を新しく結ぶ浦上新線が開通した。
 この浦上新線の実現は、長崎経済界の多年にわたる念願であった。明治31年に開通した在来の長崎本線の長崎~長与~諫早の区間は、大きく迂回しているうえに、長与~大草間に急勾配のトンネルがあるため、長時間を要するばかりでなく、輸送力にも限界があったので、喜々津から分岐し古賀、現川を経由して浦上に至る短絡路線建設の構想が、すでに大正時代から持ちあがっていた。
 大正10年2月1日、長崎商業会議所は「長崎線新線建設速成に関する建議」を内閣総理大臣、鉄道大臣宛に提出し、その後も折衝を重ねて、昭和2年、この新線は建設予定線に指定された。会議所は、その早期着工を訴えたが、着工の目途はまったく立たないまま、戦後に至るまで放置された状態で推移した。
 戦後、昭和30年代になって、長崎の産業界は急激な発展、拡大をとげ、他地域との貨客の交流はますます活発になったが、これに伴って長崎本線のダイヤも過密化し、在来線だけでは対応できない状況になった。
 鮮魚輸送の迅速化、観光客の誘致推進の面からも、浦上新線の早期実現の必要性が痛感されるに至った。県、市、商工会議所は、政府、国会、関係方面に対し熱烈な陳情活動を再開した。
長崎駅で行なわれた国鉄浦上新線開通発車式
 その結果が実って、昭和37年5月調査線に指定を受けるに至り、一歩前進をみることになった。県、関係市町、経済界は、その早期着工を求めるため、さっそく「諫早・長崎間国鉄浦上線建設促進協議会」を結成、より強力に建設促進運動を進めた。
 こうして、昭和41年10月31日、待望の起工式にこぎつけ、85億円の工費と6年の歳月を要して、47年10月2日、開通の運びとなったのである。
 この新線の開通によって、在来線より6.7㎞短縮され、勾配も緩和されたうえに、在来線と合わせて複線化されたことになったので、長崎本線の輸送力は大幅に増強され、スピードアップされることになった。

15.長崎空港の開港 (昭和50年5月)

 昭和50年5月1日、長崎県民待望の長崎空港が世界で初めての海上空港としてオープンした。この日から、長崎の空は本格的なジェット化時代を迎えることになった。
 昭和40年代の高度成長最盛期を迎えて、航空需要はますます旺盛になり、航空各社では高速・大型のジェット機の導入を競っていた。
 こうしたなかで、宮崎はすでにジェット機が離着陸できる空港を備え、熊本、大分、鹿児島でも新空港の建設が進められていた。
 一方、本県の空の玄関口であった大村空港は、昭和34年に、戦前の軍用飛行場を転用して開設されたもので、規模が小さく、施設も不備で、大型機の離着陸は不可能であった。
大村青果市場で行なわれた新空港の起工式
 こうした実情から、大型空港の開設を望む声が県内各界・各層から高まっていたが、長崎県当局も早くから、その必要性を痛感し新空港建設の構想を練るとともに、候補地の選定を進めていた。昭和44年に至って諸般の条件を検討の結果、最終的に大村湾の箕島を最適地と認め、さっそく、島民との折衝を始める一方、46年度から始まる空港整備第二次五カ年計画に組み入れるよう、政府、関係方面に対し要請することになった。
 これに呼応して、かねてから、新空港の建設を訴えていた長崎商工会議所は経済諸団体に呼びかけて、44年4月、長崎大村空港整備促進協議会を結成、政府、関係方面に対して活発な陳情、要望を行なうとともに、県民の認識、理解を深めるためのPR活動を展開した。新空港建設の鍵となる島民・漁民との交渉は難航を極めたが、県当局の懸命な努力によって、46年8月、ようやく妥結し、同年10月、運輸大臣の認可があって、翌47年1月22日に着工の運びに至った。こうして、新空港は3年余の歳月と210億円の資金を要して50年5月1日の開港をみることになったのである。
完成直後の長崎空港
 新空港は、総面積134万m²で大村空港の約5倍、2,500mの滑走路と最新の施設を備え、ジェット機の就航によって東京まで僅か1時間45分で結ばれることになった。開港後の利用状況をみると、機材の大型化、空路の拡充、国際チャーター便の就航等によって、53年には利用者数160万人を超えるに至り、さらに54年9月には、日中定期便の開設が予定されるなど、今や空港施設の一層の拡充・整備とあいまって、国際空港を目指し大きく飛躍しようとしている。
 なお、促進協議会は、その使命を終えたとして50年5月に解散したが、その後身として51年7月、長崎県空港協議会が結成され、空港施設の拡充、路線の拡大、国際化の推進など本県航空事情の一層の改善に努めている。

16.長崎卸センターの完成 (昭和51年10月~)

 昭和40年代の高度経済成長最盛期を迎えて、長崎市の卸売業界も急速な業績の伸長をみせ、活況を呈するに至ったが、反面、取扱商品の大量化、多様化による保管施設の不足、交通規制の強化による商品の搬出入難などの問題を生じ、卸売機能を十分に発揮できない状況にあった。
 こうした実情から、長崎市の主要卸売業者で組織する長崎百貨卸商連盟は、かねてから物流面の改善と経営の近代化、合理化をはかるため、市郊外適地に卸団地建設の構想について検討を重ねていた。
 昭和44年5月19日、長崎商工会議所と卸商連盟は、長崎市に対し同市が造成中の東望埋立地のうち、35,000坪を卸団地用地として払い下げるよう要望するとともに、建設計画の具体化にとりかかった。
 こうして、卸商連盟会員を主体にした卸団地建設の計画が進められている折から、46年9月9日、長崎県は、長崎、諫早、大村、島原各市の卸売業者を集めて、県南卸団地建設の構想を発表し、その検討を求めた。県の構想は、6~7万坪の土地に、県南地区の卸売業者を100社程度集団化して、あらゆる業種を網羅した卸団地を建設し、県南地区の流通センターにしようとするものであった。
 その後、県、商工会議所、卸売業界との間で協議を重ねた結果、県の構想に基づく卸団地建設の合意に達し、事業主体になる協同組合の設立準備を進めた。
 こうして、47年4月4日、団地参加を希望する卸売業者66社で協同組合長崎卸センターを設立。さっそく用地選定にとりかかって、同年8月3日、東長崎地区(宿町、田中町にまたがる山林)に決定、買収交渉に乗り出した。しかしながら、土地開発に対する厳しい規制措置や地元住民対策などの諸問題に、48年暮のオイルショックによる物価高騰も加わって、交渉は難航をつづけ、49年6月、ようやく造成工事着工の運びに至った。
昭和51年10月に完成した長崎卸センター
 以来、約2年余の歳月と43億円(買収費12億円、造成費31億円)の資金を要して、51年9月、10万坪の広大な団地用地の造成を完了。土地造成と併行して建設が進められた組合会館も時を同じくして完成して同年10月15日、同会館において盛大な落成式を行なった。ひきつづいて組合員の店舗建設が始まり、52年1月を第1陣として、次々に入居、営業を開始して、昭和54年3月末現在では51社が入居、そして、平成21年現在では、70社(全従業員1,608名、年間売上高1,310億円)が入居、営業を行なっている。各社とも、厳しい経営環境のなかで集団化、共同化のメリットを生かしながら経営の合理化、近代化をはかって業績の伸長に努めているが、共同事業の拡充、販路の拡大に伴って、今後、一層の飛躍発展が期待されている。

17.転機を迎えた地域経済 (昭和50年代)

 昭和46年のドルショック、それにつづく48年の石油ショック以来、日本経済は急速な冷え込みに直面して、いわゆる高度成長時代から低成長時代への転換を余儀なくされた。そのうえ新たに200カイリ問題や円高問題等も加わって、政府の数次にわたる景気振興対策にもかかわらず、50年代に至っても景気の回復は遅々として進まず低迷を続けた。
 長崎地域経済は、こうした全国的な経済状態の余波に加えて、地域産業に基幹的な位置を占める造船業が50年から構造的不況の直撃を受け、最大手の三菱造船はじめ、主要造船所が軒並みに急激な減量化を強いられた。その影響は関連業界はもとより広く地域全般に及び、しかも長期化して回復のきざしさえもつかめない状況に追いこまれ、これからの脱出が50年代を迎えた地域経済の最大の課題となった。すべての企業がきびしい試練を乗り切るため、懸命な自助努力に努め、県、市行政当局は長崎新幹線、洋上石油備蓄基地などの大型プロジェクトの推進をはじめ、造船関連業界への公共工事別枠発注、緊急融資制度の創設など幅広い施策を展開した。
 しかしながら、こうした企業努力、行政施策をもってしても、局面の好転はみられないまま不況はますます深刻の度合を加え、53年11月には、ついに特定不況地域に指定されるに至った。
 こうした状勢のなかで、長崎商工会議所は、51年12月、清島新会頭のもとに新体制を確立して、組織の拡大、県・市・経済諸団体との連係強化に努めながら「開かれた商工会議所」「行動する商工会議所」として多難な地域状勢に積極的に対応するとともに、54年10月1日で創立100周年を迎えるのを契機として、経済の広域化・国際化が進展するなかで、地域経済の新しい拠点となる新商工会館の建設を決定し、将来への飛躍に備えることになった。

18.長崎商工会議所の新体制整う (昭和51年12月)

 長崎地域経済が低成長時代への移行、造船業の構造不況等によって急速に衰退のきざしをみせるとともに、将来への展望も確立されないなど大きな混迷に直面していた昭和51年12月7日、長崎商工会議所は役員改選を行ない、体制を一新した。
右から清島会頭、中部副会頭、松田副会頭、 川添副会頭、本田専務理事
 この役員改選は、前月行なわれた会議所議員選挙の後を受けて行なわれたもので、新会頭に清島省三氏、副会頭に中部長次郎、松田皜一、川添清次の各氏を選任するとともに常議員26人、監事3人を選任して新役員を決定した。
 こうして、新体制を整えた商工会議所は、同月20日、万才町のチサンで役員改選後初の議員懇談会を開催し、清島新会頭が会議所運営の方針等について所信を明らかにするとともに「開かれた会議所」「行動する会議所」として時代の要請に即応した活発な事業活動を展開するために議員の積極的な協力を要請した。

19.長崎県経済問題懇談会の設置 (昭和51年12月)

 昭和51年12月20日、長崎グランドホテルで長崎県経済問題懇談会の初会合が開かれた。この懇談会は、長崎商工会議所の清島会頭が会頭就任にあたり、商工会議所活動の活発化をはかり、あわせて造船不況下の地域経済の振興対策を効果的に推進するためには、行政当局、経済団体との連携を一層強化する必要があることを痛感し、その方策のひとつとして、長崎県、長崎市、長崎県経営者協会、長崎経済同友会、長崎商工会議所のトップが定例的に会合して情報・意見を交換する組織の設置を提唱し、それぞれの団体の賛同を得て実現をみたものであった。
 懇談会は翌年1月から定例的に継続して開かれたが、これによって県、市、経済団体間の意思の疎通の迅速化と相互の協力関係の緊密化がもたらされ、時勢の推移に即応した適切な行政施策の確立と業界の実態に即した会議所活動の推進をはかるうえにおいて大きな役割を果した。

20.一日商工会議所を開く (昭和52年6月)

桜馬場町で開催された「一日商工会議所」
 昭和52年6月24日、長崎商工会議所は初の「一日商工会議所」を住吉町の北公民館で開いた。
 この「一日商工会議所」は、行動する会議所活動の一環として、市内各地区ごとに商工会議所と商工業者が直接、対話を行なう場を設け、話し合いを通じて、商工業者の会議所に対する理解を深めさせるとともに、当該地区商工業の発展をはかることを目的として、52年度から始めることになったものである。
 当日は会議所から清島会頭をはじめ副会頭、専務理事、関係部会長らが出席。地元からは住吉、中園、若葉、家野町など北部地区商工業者80余人が出席して、地区商工業が当面する問題や会議所活動のありかたなどについて熱心な話し合いが行なわれ、予期以上の盛会であった。
 そのなかで地元から、(1)商店街街路灯の設置 (2)商店街駐車場の建設 (3)農協・生協の員外利用規制 (4)商工会議所支所の設置などの問題について会議所の指導、援助を求める要望が出されたが、会議所はこれに対して、さっそく県・市関係へ折衝を行なうなど機敏な措置を講じ、その早期実現もしくは解決に努めた。住吉商店街の街路灯建設について県・市の補助金獲得に成功し、同年12月、その完成をみたのも「一日商工会議所」の成果であった。
 「一日商工会議所」は、その後、東部、浦上、中央の各地区で開かれたが、地域総合経済団体として商工業者の実情に即した広範、多岐にわたる会議所活動を推進するうえにおいて大きな役割を演じた。

21.造船不況の進行とその対策 (昭和51年12月)

 輸出産業の花形として高度成長の一翼を担っていた造船業は、昭和48年秋のオイル・ショックを契機とする世界的な大型タンカーの需要減少によって構造不況に突入した。
 世界一の造船量を誇った三菱長崎造船所も、49年をピークとして業績は急激に下降線をたどり、53年の操業度は最盛時の半分を割るに至った。造船業に大きく依存する長崎の産業経済界は大きな打撃を受け、その影響は造船関連企業はもとより、すべての業界に波及して、かってない厳しい局面を迎えることになった。
 県、市行政当局は、当面の下請企業対策、造船離職者対策を急ぐ一方、造船業の仕事量確保、雇用の拡大のため、火力発電所、石油備蓄基地誘致などの大型プロジェクトをつくり、経済界と一体となってその早期実現に努めた。
 こうした状勢のなかで、長崎商工会議所は、52年度事業計画において不況対策の推進を最重点事業とし、会議所の総力をあげて造船不況の打開に取り組むことになった。52年6月、造船不況対策特別委員会を特設して、ただちにその具体的方策について検討を行なうとともに、政府、国会方面をはじめ県、市当局に対し、適切な施策の早期確立を求めて、さっそく活発な意見活動を開始した。
 同年9月3日に来崎した衆議院商工委員一行に陳情を行なったのをはじめとして、自民党首脳との懇談会(同年9月18日)参議院不況調査団(53年4月19日)新自由クラブ不況地域調査団(同年11月28日)など政府、国会関係者に対し直接面談のうえ陳情、要望を重ねるかたわら、日本商工会議所、九州商工会議所連合会、九州・山口経済連合会等に対し提案するなど、あらゆる機会をとらえて、意見活動を展開した。
 しかしながら、こうした県、市、商工会議所あげての努力にもかかわらず事態はますます悪化して、造船業・関連企業は設備削減、人員整理を余儀なくされ、その余波は全市に及んで、ついに53年11月には特定不況地域に指定されるに至ったのである。

22.会員大会の開催 (昭和52年10月)

 長崎商工会議所は、創立記念日にあたる昭和52年10月1日、魚の町の長崎市民会館文化ホールで初の会員大会を開催した。この会員大会は、長崎地区唯一の総合経済団体である長崎商工会議所の会員が一堂に会して、連帯意識を強め、一致団結して不況の克服に努め、商工業者の振興と地域経済の発展を期することを目的として開かれたものであった。
 当日は、高田県副知事、諸谷市長らを来賓として迎え、会員、受彰者など約600人が出席し、国歌斉唱によって大会の幕を開けた。
長崎市民会館で開催された第1回会員大会
 冒頭、清島会頭が所信を表明、その中で「行動する会議所として全会員の総力を結集して困難な現状を克服し、長崎経済の繁栄をはかろう」と会員の団結を強く訴えた。
 続いて高田副知事、諸谷市長から、それぞれ「地域経済振興の原動力として会議所の一層の活躍と発展を期待したい」旨の祝辞が述べられた後、永野日本商工会議所会頭のメッセージ、各方面からの祝電が披露された。
 次いで松田副会頭が大会宣言を読みあげ、万場拍手をもってこれを採択した。そのあと、会員事業所の永年勤続従業員表彰に移り、40年勤続の川田仙治氏(岩永金物店)ら454人の受彰者に対し、会頭から表彰状と記念品を授与して第一部を終わった。
 第2部は、作家の笹沢左保氏が「体験的宿命論」と題して講演、大会を盛況のうちに閉会した。

23.長崎県商工会議所連合会議員大会の再開 (昭和52年11月)

 長崎県内の各商工会議所が、相互に緊密な連係を保ちながら一致協力して地域経済社会の問題解決に努め、真に地域産業経済の振興に寄与する会議所づくりを目指して開催する長崎県商工会議所連合会議員大会は、昭和48年6月11日、佐世保市で第16回大会を開催して以来、諸般の事情から中断状態にあった。
 長崎県商工会議所連合会は、造船不況の影響から本県の経済がかってない厳しい局面を迎え、商工会議所の一層の活動が要請されている折から、こうした状態をいつまでも放置しておくことは許されないとして、52年5月27日の専務理事会において協議のうえ、再開を決定した。
平戸国際会館で開催された第17回 長崎県商工会議所連合会連議員大会
 こうして、第17回大会は同年11月21日、平戸市の平戸国際会館において県下各商工会議所の役員、議員200余人が参加(長崎商工会議所から35人参加)、来賓に柴田県経済部長、山鹿平戸市長らを迎えて4年振りに開催された。
 大会は、国歌斉唱、新役員紹介にはじまり、清島連合会会長が「厳しい不況に直面している今日、われわれは商工会議所議員としての自覚をさらに強め、会議所の使命達成に一層真剣な態度で臨み行動する会議所として地域経済振興のため積極的に努力しよう」と挨拶した。
 続いて来賓祝辞のあと、田中平戸商工会議所会頭を議長に選んで議事に入った。各商工会議所から提出された議案について、それぞれ説明、審議を行ない、全議案を万場一致で採決し、大会後ただちに各関係先に陳情、要望することにして議事を終わった。その後、海上自衛隊佐世保地方総監部の西山幕僚長が「防衛一般」と題する講演を行ない閉会した。
 この議員大会は、第17回大会以降、県下商工業者の情報交換と意見集約の場として、各会議所持ち回りの形で順次開催され続けており、県内経済や商工業の振興発展に大きな役割を演じている。

24.洋上石油備蓄基地の建設促進 (昭和53年4月)

 昭和52年3月、三菱商事など民間10社が共同して、上五島町に洋上石油備蓄基地建設の計画を進めていることが明らかにされた。この計画は、三菱長崎造船所が新しく開発した工法により、同町青方湾に貯油タンク7基を浮かべて、わが国の石油消費量の7日分に相当する約600万klの原油を貯えようとするもので、総事業費は約1,800億円、工事量は同造船所香焼工場の1年2カ月分にあたる大規模なプロジェクトであった。
 この計画は国のエネルギー政策にこたえるだけでなく、当面する造船不況の打開、さらには地域経済の浮揚につながるものとして、長崎県当局は全面的にバックアップしてその推進をはかることになり、経済界はひとしくその早期実現に大きな期待を寄せた。
 しかしながら、地元漁民らの反対の動きが強く、さらに53年には民間備蓄から国家備蓄へ計画が転換された事情なども加わって53年に至っても、事態の進展はまったくみられなかった。
 こうした情勢のなかで、清島長崎商工会議所会頭は、経済界も県当局に積極的に協力して、その早期実現に努める必要があるとして、県内主要経済団体による長崎県石油備蓄基地建設促進期成会の結成を提唱、各団体の賛同を得て結成の準備を急いだ。
 期成会は、長崎県商工会議所連合会、長崎県経営者協会、長崎経済同友会、長崎県中小企業団体中央会、長崎県商工会連合会、日本青年会議所長崎ブロック協議会、長崎県造船関連企業連絡協議会の7団体で組織することにし、53年4月14日、長崎グランドホテルに、各団体の代表15人が集まって創立総会を開いた。
 規約審議のあと会長に清島商工会議所連合会会長を推し、経済界の総意と総力を結集して洋上石油備蓄基地の建設促進に全力を傾けることにした。
昭和63年9月に完成した上五島洋上石油備蓄基地
 当日、総会にひきつづき、ただちに県知事、県議会議長に対し「県政の最重点施策として、より一層積極的に推進をはかって欲しい」旨の要請を行なうとともに、政府、関係機関、県選出国会議員等に陳情書を送付するなど、さっそく活動を開始した。
 この間、県当局の懸命な説得工作にもかかわらず、地元の反対は依然として根強く、計画は遅々として進まないまま推移したが、翌54年に至って、地元有志により誘致促進期成会が結成されるなど事態はようやく進展のきざしをみせることになった。
 しかしながら、国家備蓄基地の指定取り付け、漁業補償の条件、建設工事の県内受注確保など解決すべき困難な問題が多々残されて、前途はなお楽観を許さない情勢にあったため、期成会は中央に対する陳情要望活動の一層の強化、地元期成会の支援など県当局と一体となって、その早期実現を目指して活発な活動を進めた。
 こうした活動が実り、昭和63年9月に完成、10月1日、「上五島石油備蓄基地」は初の原油を注入(オイルイン)、備蓄業務を開始した。当初は1期分は5隻、2期分は2隻の予定であったが、1期分の5隻のみでの操業となった。

25.海外商工会議所と姉妹縁組 (昭和53年4月・5月)

ポルト市商業会議所との調印式で握手を交わす 清島会頭
 国際化の進展にともなって、経済外交を進め、あわせて国際親善を深めるため、海外商工会議所との姉妹縁組が盛んになっているが、長崎商工会議所は、昭和53年4月21日、セントポール市(アメリカ)の商工会議所と、同年5月26日、ポルト市(ポルトガル)の商業・工業両会議所とあい次いで姉妹会議所関係を締結した。
 これは、長崎市と両市が姉妹都市関係にあったので、経済界も姉妹関係を結び交流を活発にしようという気運がそれぞれの会議所で盛りあがり実現をみるに至ったもので、清島会頭が現地を訪問、それぞれ調印書を交換した。
 この姉妹会議所縁組によって、経済視察団や観光団の来往など今後、両市との交流が盛んになり、長崎の国際都市化への動きに拍車がかかるものと期待された。

26.長崎新幹線の建設促進 (昭和51年12月)

 長崎地域にとって直接、間接に極めて大きな開発効果をもたらす長崎新幹線(福岡~長崎150㎞)の建設については、長崎商工会議所としてもその促進を最重点事業に据えて県当局はじめ関係幾関と密接に協調しながら、その早期実現のための諸事業を積極的に展開してきた。
 長崎新幹線は、昭和45年、「上海につなぐ長崎新幹線」をキャッチフレーズに建設要望が打ち出され、47年12月基本計画に決定、つづく48年11月、整備計画線に決定して早期着工が期待されたが、折からの石油ショックによって凍結状態が続くことになった。
 しかし、昭和53年に入ってながびく全国的不況を克服するための内需拡大策として「整備計画線の具体的実施計画を同年9月末までに作成する」ことを同年3月の経済対策閣僚会議において決定、環境アセスメントを含む諸調査が推進されることになった。
 ところで長崎新幹線問題についての地元の対応は、昭和46年5月に設立された長崎県幹線鉄道整備促進期成会が中心的役割を演じてきたが、53年に入って、経済対策閣僚会議の決定から新幹線建設のテンポが早まる可能性が出てきたため、在来の建設促進体制を更に強化するため、53年6月、長崎新幹線建設期成会が県に、時を同じくして長崎新幹線建設長崎市促進期成会が市にそれぞれ設置され、長崎商工会議所としてもこれに積極的に参加し、新幹線建設財源の確保等早期着工について中央への陳情活動、建設促進のため署名運動などを実施、協力を進めた。

27.商工会議所制度発足100年を祝う(日本商工会議所) (昭和53年10月)

 昭和53年は、わが国最初の商工会議所が明治11年に東京、大阪、神戸に誕生してから満100年を迎えた年であった。
 日本商工会議所は、この記念すべき年にあたり、商工会議所100年の歴史を回顧してその役割の重要性を再認識するとともに、次の100年に向って躍進を期するため、記念式典をはじめ全国商工会議所議員大会、商工会議所100年記念展、全国郷土祭など多彩な記念行事を催した。
 記念式典は、昭和53年10月21日、東京・九段の日本武道館で、皇太子ご夫妻ご臨席のもと福田首相保利衆議院議長、土光経団連会長ら政財界から多数の来賓を迎え、全国475の商工会議所代表約7,500人(長崎商工会議所から清島会頭以下12人)が参加して盛大に開かれた。
 式典は永野日商会頭の式辞にはじまり「近代日本の創業に加わった先人の高い志と情熱を想起し、わが国経済社会の発展に全力を尽くしたい」と商工会議所第二世紀への決意を表明した。
 来賓祝辞に移り、福田首相は「新しい100年への出発点として企業と地域との調和に努め、あすの豊かな社会建設に一層の活躍を期待したい」と激励した。そのあと、功労者表彰が行なわれ、永年にわたって商工会議所活動に貢献した各地商工会議所役職員3,836人が河本通産相、永野会頭から表彰を受けた。長崎商工会議所関係では、山田博吉氏ら4人が通商産業大臣表彰を、川添清次氏ら7人が日本商工会所会頭表彰を受けた。
 記念式典にひきつづいて、全国商工会議所議員大会が開かれ、次の100年に向かっての決意表明を採択したあと「現在、約100万人にのぼる各地の商工会議所会員を結集する会員大会を設け、より大きな力を発輝できるようにしたい」との緊急動議を満場一致で議決した。
 

28.各業界との景気対策懇談会 (昭和53年10月)

 昭和48年のオイルショックに端を発した造船不況は、53年になって、ますます深刻化の度合を強め、その影響は造船業界にとどまらず、商業、サービス業にも売上の低迷となって現われるなど地域経済は、いよいよ厳しい局面を迎え、同年11月には特定不況地域に指定されるに至った。
 こうした情勢から、長崎商工会議所は、各業界の動向と問額点を的確に把握し、業界の実情に即したきめ細かな事業活動を推進するため、同年10月26日、各業種組合、主要商店街の代表60人を招き、会議所ホールで景気対策懇談会を開いた。
 懇談会は、清島会頭の「現下の厳しい情勢を克服し、真に活力のある地域経済を築きあげ、将来への明るい展望を確保するためには、商工業者の総意と総力を結集した活発な会議所活動の展開が必要である。会議所に対する業界の一層の理解と協力を要請したい」旨の挨拶ではじまり、つづいて、各業界代表が業界の動向、問額点、対応策についてそれぞれ立場から説明を行なった。
 そのあと、業界振興のための会議所活動の進めかたなどを中心に懇談が行なわれたが、その内容は、
(1)造船下請企業の仕事量の確保 (2)官公需の地元優先発注 (3)洋上石油備蓄基地の建設促進 (4)大型店の出店規制強化 (5)商店街再開発の指導 (6)観光客の市内宿泊対策 (7)道路交通渋滞の緩和 (8)商店街駐車場タクシー乗場の整備促進など多岐にわたるものであった。
 これらの意見、要望はいずれも早急に解決困難な問額ではあったが、会議所は県、市、関係機関に意見具申を行なうなど業界の要望に応えるため、積極的な推進をはかった。
長崎商工会議所
〒850-8541
長崎市桜町4-1 長崎商工会館2F
TEL.095-822-0111
FAX.095-822-0112/825-1490


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