昭和57年(1982)
15.商業サービス月間事業実施 (昭和57年2月)
商業サービス月間事業として昭和57年2月、本所主催の物価安定協力運動を実施した。通商産業省、中小企業庁などの後援。
運動には長崎市内の各商店街、市場などの商店が参加。値段の据え置き、価格割引など物価安定に積極的に取り組んだ。期間中、物価の安定はもちろん、消費者と商業者との結び付きを深めようと市内30商店街、約1,300商店がポスターやステッカーを店内に貼付、運動の高揚を図った。
また期間中、商業サービス特別週間事業として本所ホールで『新商品等展示会』を開催。新開発商品やアイデア商品を紹介するとともに、パソコン、電子辞書、英会話練習機、レーザーディスク、音楽絵本、自動演奏ピアノなどユニークな商品が来場者の興味を集めた。
16.先端技術導入促進特別委員会設置 (昭和57年3月)
昭和50年代の後半から、鉄鋼、石油化学等の基礎素材型産業が低迷を余儀なくされ、これに代わって、先端技術産業が脚光を浴びる等、産業構造の調整が進んでいた。国においても地域における技術振興策を重点施策にとり上げていた。
本県においても、先端技術産業の誘致、既存地元企業の先端化への取り組みの必要性が痛感されていたところから、本所は昭和57年3月、先端技術導入促進特別委員会(金子逸朗委員長)を発足させ、きたるべき時代に備えることとなった。
委員会の所管は、新技術の開発および導入、実用化、先端技術産業の誘致、既存地元企業の先端技術導入への情報提供等であった。
17.長崎販売士協会設立 (昭和57年7月)
プロの販売員の組織、長崎販売士協会が昭和57年7月に設立され、稲尾省三氏(稲尾家具店・代表)が会長に就任。
昭和48年に小売商(販売士)検定制度が始まり、10年を迎え、本所管内の有資格者も417人を数えるに至ったことから、有資格者の研修、資格更新の手続き簡素化、販売士の社会的地位確立などのため設立された。
協会は講習会、セミナー、研究事業の実施のほか、販売士のいる店の標示登録制度の受託実施、会員の拡充、組織強化などを図っている。
18.青年部設立 (昭和57年7月)
昭和57年7月、本所青年部が設立。本所ホールで設立総会を開き、初代会長に川添弘之氏(川添硝子・専務取締役)が就任した。若手企業人の地域社会への積極的参加、会議所活動への参画、経済人の育成などを図るためで、理事会、委員会活動を通じて、地域経済活性化に若手の声を反映させることになった。
商工会議所における青年部の設立は昭和30年代に始まり、全国171会議所に設置され、県内でも北松、平戸、大村、島原の各会議所で既に活動中。本所でも56年から検討され、会員事業所のうち45歳未満の若手企業管理者70人の参加でスタートが決まった。
青年部は (1) 商工業の振興を通じ、地域社会の発展を図る (2) 本所の事業活動に寄与する (3) 経営者としての人格、教養、能力を高める (4) 会員相互の啓発、親睦を図ることなどを事業目的として、活動を推進している。
19.水害の早期復興と都市計画を推進 (昭和57年7月)
県南部を襲った集中豪雨(通称、7・23長崎大水害)は、長崎市を中心に各地で多数の犠牲者を出し、生活、産業、交通などあらゆる都市生活機能をマヒさせ、壊滅的打撃を与えた。死者・行方不明者299人、負傷者805人、住家全半壊1,538戸、床上浸水17,909戸、道路不通83ヵ所、がけ崩れ・地滑りなど4,457ヵ所、被害総額は約3,153億円(うち長崎市2,082億円)。昭和32年の諫早大水害と並ぶ未曽有の大惨事となっただけに災害復興はもちろん、災害に強い防災都市建設、都市交通網の整備など残された教訓も多く、長期的視野に立った防災都市づくりが切望された。
本所は水害後、ただちに水害復興特別委員会を設置(9月)、松田皜一副会頭を委員長に早期復興と今後の都市計画について取り組みを始めた。
さらに県商工会議所連合会は県などと共催、長崎大水害復興懇談会を開催、経済復興、長崎都市再生への決意を表明した。
また、災害視察のため現地入りした政府派遣の各調査団に対し (1) 商店街等中小企業者の商品、店舗、工場などの被害に対する政府金融機関の長期低利の特別融資 (2) 信用保証の特別枠の設定と保証料の軽減措置 (3) 政府系金融機関の償還延期 (4) 小規模事業者の復旧指導に対する補助金の特別措置 (5) 被災商店街活性化のための新規助成措置 (6) 商店街の防災施設整備への助成 (7) 火災共済の行なう風水雪害に関する組合共済事業の支払額の算定について、火災と同様の算定方式の導入などを強く要望。これらのほとんどが認められ、各商店街、企業の復興に大きく貢献した。
このほか金融対策として、県、長崎市はじめ国民金融公庫、中小企業金融公庫、商工組合中央金庫などのほか、住宅金融公庫、一般金融機関などで各種の災害復興資金の取り扱いが行なわれ、税務関係でも国税、地方税など納期延長や予定納税の減額などが行なわれた。
20.長崎市中高層建築物指導要綱の撤廃を陳情 (昭和57年11月)
都市環境整備に取り組んでいる本所は昭和57年11月、本島長崎市長に対し、長崎市中高層建築物指導要綱の撤廃を求めて陳情した。
昭和50年制定された同要綱が建築基準法の一部改正により、日影についての規定が整備されたのに併せて、要綱精神に沿った業界の対応も定着化。さらに同市の地理的特殊事情に基づく土地の高度利用による市街地活性化を促進しようとの考え。陳情に対し本島市長は『撤廃の方向で検討するが、まず日影等基準法に沿った改正を行ない、続いて建設業界の自主規制の完了を待って撤廃に踏み切りたい』と回答、同市議会も『趣旨に沿った形で解決できるのではないか』と好意的な見通しが示された。
同要綱については、手続の繁雑さや中高層建築物の建築意欲にブレーキとなっているなどの批判の声が強く、都市環境整備促進のうえから、改善策が求められていた。
なお、同要綱は要望のとおり業界の自主規制を中心とした「長崎市中高層建築指導基準」を制定することを前提に58年3月に廃止された。
21.長崎シンガポール協会設立 (昭和57年12月)
長崎シンガポール協会が昭和57年12月に設立され、会長に清島省三会頭が就任した。会議所活動の国際化促進の取り組みで、友好親善はもちろん、学術、文化、経済交流の母体として成果を挙げた。
協会はシンガポールと本県の友好親善を促進するために本所などが呼びかけたもので、経済界はじめ、貿易、観光、大学関係者らが積極参加。県内の高校生による親善訪問団派遣、歴代駐日大使をはじめとする要人の招へい受け入れ、シンガポール事情を紹介する講演会などの開催の他、特に、59年11月、県シンガポール訪問団(団長・三村副知事、特別顧問・清島省三会長)が医学シンポジウム開催を目的にシンガポールを訪れ、長崎大医学部、シンガポール大医学部の学術交流を実現。両国にとって共通の大きな課題であるB型肝炎ウィルスをめぐる諸問題をテーマにシンポジウムは、多大な成果を収めた。
60年12月には長崎市にシンガポール大を招き、第2回のシンポジウムが開催されるなどテーマも風土病からガンなど医学界の注目すべき諸問題について継続的、発展的な研究討議が重ねられた。シンポジウムは平成元年11月まで延べ5回開催された。
また、現地においても本県ゆかりの企業人らによってシンガポール長崎友好協会(代表幹事・桟幸彦シンガポールヤクルト本部長)が設立されたのをはじめ、シンガポール・ドラゴンボートチームと長崎ペーロンの相互交流、物産展開催、貿易促進団派遣、留学生交換など活発に事業を実施。長崎-シンガポール定期航空路開設の要請活動も熱心に継続、長崎空港発着のシンガポール向けチャーター機就航も上向きとなり、59年611人、60年158 人、61年164人、62年398人、63年618人がシンガポールを訪れた。